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目の中の友達



僕の友達を知らないかい?

いつも目の中にいるやつだよ


屋根裏も、地下室も、探しまわったけど、いないんだ

よく行く場所も探してみたけど、いないんだ

今まで見たものを思い出しても

これから見たいものを思い描いても

やっぱり、どこにも見あたらない


それで僕はひと休みして、目を閉じることにした・・・

あっ 見つけた

僕の目の中の友達だよ





360

以下、wikipediaより転載




360は合成数であり、約数は 1, 2, 3, 4, 5, 6, 8, 9, 10, 12,
15, 18, 20, 24, 30, 36, 40, 45, 60, 72, 90, 120, 180, 360である。

1 から 10 までの数の内、7 を除いて全ての数で割り切れる、最小の数は 360 である。
300番台の数では最も約数が多い。

360 は約数を24個持ち、11番目に小さい高度合成数である。
これより小さい高度合成数は240、次は720である。
なお、720以下の自然数では420, 480, 504, 540, 600,
630, 660, 672と並び最も多くの約数を持つ(いずれも24個)。

角度の1周(周角)は360°である。これは、1年が約360日であることに由来する。

点1個の角度は360°である。
四角形の内角の和は360°である。また全てのn角形の外角の和も360°(n≧3)。
三角関数などの一般角は θ + 360° × n で表わされる(nは整数)。
また 360° = 2π rad 。




古くから、1年は360日で概算されて来た。
古代文明では、メソポタミア文明が30日×12周で、マヤ文明が20日×18周で概算した。
尚、1年は太陽暦では365日、太陰暦や太陰太陽暦では354日または355日である。

ここから転じて、時間や角度においては、360は全体を表す数となり、
特に時間の単位は「1年=約360日=約30日×12周」を基礎とする。

単位系では、約360日を1年(12ヶ月)、
360ヶ月を1世代(1世とも。30年)、
360年を1運(12世代)という。

また、現在では、1ヶ月は約720時間となっているが、当初は約360時間とされていた。

慣用表現では、「一周」「全く同一」「全体」の意味でも用いられる。
例:「360°のパノラマ」「360°同じ考え」「360°評価」





mark_1.jpg
mark_2.jpg
mark_3.jpg

sweet hurt



コンピューターに、
理想の美女をシミュレーションさせたら、
あんまり印象的な顔じゃなかったらしい。


「世界かさぶた選手権」というものがあったら
みんな面白くて、グランプリは選べないかもしれない。


傷ができた理由はそれぞれ
治療の状態もそれぞれ
はがしかけだったり、何度もはがしたあとだったりして…


事業に成功してお金持ちになった人が
その後なにをしたか、という話よりも
失敗した人が、どんな理由で失敗したか
それからどうしたか、という話の方が、興味深いと思う。


傷には歴史があって
どのように治ったか、
治った傷とどう付き合ってきたか、ということが、
その人を作っている。


つけられた傷も絆ならば、
それを愛おしむ気持ちも生まれてくる。


歳をとるとは、そういうことかもしれないと
このごろは考えている。



ドアの失われた世界



17歳のころ、日曜日の午後、
ベッドに寝転んで、ぼんやり部屋の隅を眺めていたとき
その認識が来た。





部屋のドアが開いていて、その蝶番が見えていた。
蝶番は、ドアの一部だけど、ドアそのものではない。

同じように、ノブや、表面の板だって、
ドアの一部だけど、ドアそのものではない。

そう考えていくと、
ドアを構成している要素の全ては、ドアそのものではなく、
一時的にドアという形を取っている部品にすぎないことが分かる。

逆に考えると、ドアの蝶番が付いているこの部屋、この家、
家が建っている地面もまた、ドアの一部と言えるのかも知れない。

ドアをドアと認識している僕自身も、
ドアの一部だと言えるのかも知れない。




開いているドアは、ドアとして機能するか?

それは窓のように、
こちらからも向こうからも覗き込むことのできる
交通可能な空間なのではないだろうか。

ドアがドアとして存在している仕組みを理解できれば、
それを利用することも、無視することもできる。
ドアのない空間を回り込んで移動することさえできる。




僕を構成する肉体、
食べたもの、捨てたもの、失くしたもの、
僕を僕と同一化させる行動原理、
僕を僕だと認識する人たち、
僕をカテゴライズする様々な価値観、
僕が作った僕と、僕によって作られた僕、
まだ存在しない未来の僕自身…

僕を構成している要素の全ては、僕そのものではなく、
一時的に僕という形を取っている部品にすぎないことが分かる。




何ものからも切り離された存在というものがなく
全てが繋がっていて、また何もないとも言える。

ドアの失われた世界に、僕はいた。



巨人の階段(完結編)

 
なぞなぞです。


どんな大男も、
どんな小男も、
同じ歩幅で歩く道、なんだ?


答えは、階段。




アリは高所から落ちても、打撲で死ぬことはない。
プールに花瓶を投げ込んでも、衝撃で割れることはない。

空気や水には粘性があり、落下する物体の質量に対して浮力が発生する。
比重が軽ければ浮かぶし、重ければ沈む。
あるレベルを越えると「落ちる」に変わる。

世界は連続ではないのだ。

小さな妄執が集まって、怨みの場を形作るように。
小さな炭火が、あるレベルを越えると炎を生み出すように。
水が97度から98度になる時と、100度になる時の違いは?

世界には粘度の差があり、沸点があり、臨界点がある。

生命の進化も連続ではないから、突然変異が起こる。




タナトスの意味は単なる死ではなく、象徴的な死、
次の世界への旅立ちなのだと思う。

つまり、言葉や儀式によって連続性に切れ目を入れ、世界を断ち切って、
新しい何かを定義する、名前を与える力、
それがタナトスであり「父性」と呼ばれるものなのではないだろうか。




世界は、最小構成要素の繰り返しではない。
生活は、同じ毎日の繰り返しではない。
人生の道程は、坂ではない。ステップ(階段)だ。

その区切りを記録し、祝い、刻み込むために、人間には儀式が必要なのだ。
おしゃれ通信

階段の段差を無視できるほど大きな巨人だったとしても、
自分自身の成長のためには、ステップを踏んでゆく必要がある。




個人的には、女性よりも男性の方が、
人格的な成長において儀式を必要としているように思う。

歴史上の秘密結社や、成人のイニシエーションは、
男のために用意されているもののように思えるのだけれど、どうだろうか。

これは逆説的な表現で、
キリスト教徒やイスラム教徒の外国人が「日本人には信仰がない」と言った時に
彼らが想定している神様を持っていないことを恥じるのか、
「日本人はそんな強い神様がいなくても平気なくらい強い民族なのだ」と考えるか…
という発想の違いに似ている気がする。

つまり、女性は人工的なイニシエーションなどなくても
人格的に成長していけるくらい強い存在なのだ、と、少なくとも僕は考えている。

女性がやすやすと越えていくものを越えるために、
男にはイニシエーションが必要なのだ。




以下引用

ラカンの考え方によれば、
人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。

一度目は鏡像段階において「私ではないもの」を
「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。

二度目はエディプスにおいておのれの無力と無能を
「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。

みもふたもない言い方をすれば「正常な大人」あるいは「人間」とは、
この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。


内田 樹「寝ながら学べる構造主義」より



成長のために必要とされる、象徴的な死。

消滅ではなく、新しい世界への旅立ちとしての、死。

そこには、0から1への危険なジャンプがある。





どんな聖人も、
どんな俗物も、
同じように迎える結末、なんだ?

あなたが生まれた時、みんなが笑い、あなたは泣いた。
あなたが死ぬ時、みんなが泣いて、あなたは笑うのだ。
(古代インドの格言より)

そこにあるのは、虚無ではない。




ケチな大酒飲みのルール(条件と交渉)

 
深夜、とあるバーにて。

2人のケチな大酒飲みがいて、
店にあった酒は飲み尽くしてしまった。

残りの酒はボトルに1/3ほど残ったウイスキーしかない。

ケチな大酒飲みの2人は、どちらも酒が飲みたいが、
店を出て行くのもわずらわしい。
自分が相手より少ない量しか飲めないのは絶対にイヤだと言う。

この2人がケンカにならないよう、
酒を分けるにはどうすれば良いか?

ただし使える道具は、1瓶のボトルと、1つのグラスのみ。








答え:








1人が納得いくまで、ボトルとグラスで酒を半分にわけ、
もう1人が好きな方を選ぶ。

これなら、文句は出ない。


同じ事が、仕事や人間関係でも言えると思う。

つまり、どのプランになっても自分が納得できる選択肢を提示し、
相手に選んでもらうという交渉スタイルだ。

「この条件なら俺はOK。さあ、あんたはどうする?」


 

マイナーパワー



何かが足りない


イヤホンが壊れてたので、
なにげなく安いのを買ったんだけど・・・これがひどい代物で。

低音に深みがないし、高音はキツいし、広がりもない。
前のをリピートしておくんだった。安物買いをしてしまった。




カラオケボックスの音源でも、時々ひどいのあるけど。

そこにあるのは記号化された音楽なのだ。
間違いじゃないけど、うまみも無い。

こういうことは他にもある。

レシピ通りに作られてるけど、美味しくない料理。
求められる役割はこなしてるけど、信頼されない人。

そこには何かが足りないのだ・・・でも、いったい何が?


存在の生き生きとした粒子


良いヘッドホンで音楽を聴くと、耳の中で
「音のつぶ」が感じられる。

美味しい料理を食べた時には、舌の上で
「味のつぶ」が感じられる。

この、存在の生き生きとした粒子を感じられるかどうかが、
人が「豊かさ」を感じられるかどうかの基準なのだと思う。

でも「存在の生き生きとした粒子」って何だ?


ロゴスとエロス


生と死について、あるいはエロスとタナトスについては
以前からことあるごとに考えているんだけれど、
「母子像(エロス)」「父子像(タナトス)」2008.4)
このごろ僕をとらえているアイデアは、以下のような、ねじれを含んでいる。




生へ向かうエネルギーと、死へ向かうエネルギーは、次のように分類される。

生          ←→ 死
エロス        ←→ タナトス
リビドー(生への欲望)←→ デストルドー(死への欲望)
ホメオスタシス    ←→ トランジスタシス
自己肯定       ←→ 自己否定
連続         ←→ 非連続・変化




一方、連続するものと、断続的に続くものは、次のように分類される。

内容(肉・内骨格)  ←→ 構造(骨・外骨格)
律(メロディー)   ←→ 韻(リズム)
パトス(情)     ←→ ロゴス(理)




ねじれを含んでいると書いたのは、
2つ目に挙げた分類は、
それが「続いていく」という意味で、生へ向かうエネルギーなのだが、
構造・リズム・ロゴスは「断続」であり、
その中に「停止」すなわち「死」を含んでいるからだ。





power.jpg



リズムは「有る/無い」の状態を断続的に繰り返すことで成立する。

ロゴスは、論理ユニットの連結によって
部分としては堅牢な構造でありながら、全体としては変化することができる。

(ロゴスの意味は、理想や世の中の理のことではあるが、
 ここでは「○○は××である」という論理的思考の構成単位という意味で使っている)






logic_unit.jpg

logic_group.jpg


メロディーとリズム


メロディーとリズムがあって音楽が成立するが、
そのどちらが先にあるのかを考えている。

最初、リズムがあってメロディーが乗ると考えていたけれど、
メロディーは「連続」、リズムは「断続」であり、
世界はもともと巨大な連続体だと考えると、
先にあるのはメロディーなのではないかと思えてきた。

言葉が世界を「分節」して認識するように、
大いなる客体としてのメロディーを、
リズムで切り刻んでいるのが、音楽なのではないか・・・?


ロゴスによるエロスの分節


理性・言葉によって世界を認識するならば、
言葉にできないもの、分節できない連続体は
認識の対象にのぼらず、存在しても気付かれることがない。

しかしエロスは、言葉や論理の構造の中を
自在に動き、はみ出し、越境していく。

(ここではエロスを、存在するもの自体が存在しようとする力、
 あるいは生命力・存在感のような意味で使っている)




骨格を作った方が、粘土細工を立体的に作れるように、
ロゴスがあるから、エロスの活動範囲もまた広がるわけで、
両者は一体となって世界を作っているはずなのだが、
理性と言葉の勢力が圧倒的な状況では、
その「見えない力」は、あたかも存在しないかのように扱われる。

だけど、よく注意していれば、
そういう力があるということは、誰にでも分かるはずだ。

例えば、生命力としてのエロスの、科学で解明できていない部分。

呪術の心理的効果や、言霊・生き霊、
いったん心拍停止した人間が生き返ることもある等(停止がすなわち死ではない)。

エロスのうち、ロゴスをはみ出すものが、
ここで僕が語りたいと思っている対象だ。


マイナーパワー


マイナーという言葉が一番しっくり来るのだけれど、
これが正しい表現かどうかは分からない。

しかし、サブやアンチではないことは確かだ。

正に対して、副でも反でもなく、
ただいつの間にか、にじみ出してくるもの。

筆でさっと墨をひいたあと、遅れて出てくるにじみ。
話が終ったあとに、漂う余韻。

輪郭からにじみ出るもの。

マイナーパワー。




それは気(気功・空気・雰囲気)であり、
機(機前/合気・機会)であり、
霊や天使と呼ばれているものにも通じている。

たぶん、存在と存在の間にある、媒介物のようなものなのだろう。


何かを語るには、その名前を呼ぶだけでは不十分だ


そこに漂うものを捉えずに、何かを表現したと考えることは、
タンパク質と炭水化物について語っただけで、
あるいはカロリー数値について語っただけで、
食を語った気になるようなものだ。

味がなじむということはどういうことか?
寝ている間にカレーは何をしている?
パン生地が発酵する時に失うものは?


マイナーパワーはどこで働くか


マイナーパワーの主役は時間だ。
そこでは時間が、何らかの役割を果たしている。

部屋に音楽を流せば、雰囲気は確かに変わるのだ。
それは音楽が、時間の流れをより印象的に知覚させてくれるからだと思う。

「存在の生き生きとした粒子」すなわち
マイナーパワーが宿しているものこそ、
余韻であり、雰囲気であり、
人生の味わい、世界のうまみ、存在の機微なのだ。


世界と知覚


嗅覚は記憶に訴える。
知っている香りがふと鼻先をかすめ、忘れていたものを思い出すことがある。
その場にいた人たち、太陽がどんなだったか、触れていたものの温度まで。

聴覚は、論理に訴える。
複雑な図表をいきなり見せられても理解できない事柄も、
順を追って口で説明してもらえると分かりやすくなることがある。

そして視覚は、感覚に訴える。
テレビ・インターネットをはじめとする視覚メディアが発達した現代で
人々が感覚を重視するようになるのは必然なのだ。
(「〜な感じ」という表現を使わずに1日過ごしてみよう)

ただし視覚が信用できないことは、様々な錯覚や手品のトリックが示している。


感じられるもの、語ることのできるもの


僕は、人間の最大の敵は、思考停止だと思っているので、
安易に「考えるな、感じろ」と言ってしまう態度は大嫌いだし、
すぐに「言葉にできない」なんて言う人は信用できない。

だけど、考えて考えて考えて、それでも思考から逃げていくものが、
言葉にしようと何度試みても、すり抜けていくものがあることも確かだ。

人はパンのみにて生きるにあらず。
表現はロゴスのみにて成らず。




しかし、神秘主義に陥ってはならない。
それを飯のタネにしてる連中がいっぱいいるからね。

マイナーパワーは、
目には見えないし、言葉にもできない。

しかし「見えないもの」に
「見えないもの」という名前を与え、
特定の言語体系の中で機能させようとするならば、
それはすでに欺瞞である。

マイナーパワーは消失する。
(マイナーパワーという名前も仮のものだ)




目に映るものに、惑わされてはいけない。
名付けられていない世界は存在する。

それについて、言葉で完全に語ることはできない。

それを感じる者は、世界を知る者。
それを味わう者は、人生を楽しむ者。

ただ目を閉じて、感じよう。






濾過生物

 
ここに、濾過生物というものがある。

体は筒になっていて、
一方の端から食物を摂り込み、一方の端から排出する。

彼のまわりにあるものは、ほとんど全てが食物になる。

土の中にいるミミズを想像してもらうと、もっとも近い。



彼に与えられる役割を、彼は黙って受け入れる。

彼の中の空洞を、色々なものが通過していく。

与える側は、彼がどんなことを考えながら、
どんな気持ちで取り組んだとしても、
望んだ結果を作り出してしてくれれば構わない。

「心なんて必要ない」のだ。



ある時は人間として、ある時は男として、
社会人として、大人として、指導者として、
父親として、学徒として、軍人として、捕虜として・・・

受け渡されたものを、
自己の表現としてではなく、果たすべき役割として、
次に受け渡すものへと変化させ、繋いでいく。

いや、実のところ、
彼自身がなにかを変化させ、生み出す必要はないのだ。
彼は空洞をもつ筒として、ただそこに存在する。



主張する意志に迷いがなく
ロジックが、抜けも重複もなく頑強に組まれているならば、
語り手は、相手を説得しようとする必要すらない。

本当に重要なことは、静かに語られる。

(誰かがあなたを急がせる時には、
 あなたを騙そうとしている可能性がある)



今日もこの世界で、濾過生物たちが静かに働いている。
彼らは何かを受け渡すだけの存在。中身はうつろだ。

しかし果たして、彼らの存在は空虚だろうか?



ミミズのいる畑は豊かだ。
彼らの存在が、微生物の多い栄養豊富な土壌であることを示している。

そしてミミズが通りすぎたあとの土は、
彼の消化器官の中でこなされ、空気を含んでふっくらとする。



濾過生物は、ただ物事を通過させる存在にすぎないかもしれない。

しかし彼らによって、
世界に何らかの豊かさがもたらされていることも確かだ。



自我を持たない、かりそめの存在でもいい。

世界を耕すミミズでいたい。

にょろにょろ。





答えのある人は幸いである



不動産屋で物件を色々見ているうちに実感したことは、

「満足する条件」をしっかり持っていないと、何も選べないということだ。







仮説的思考ができていれば、
自分が欲しいものの条件は整理されている。

「○○が××ならばOK」

このような満足する条件を持たないまま、何かを求めると
「もっと△△な方が良い」
「もう少し□□な方が良い」
と細部へのリクエストに終始し、求めるものの像も矛盾をきたしたあげく
結局、何も手に入らないという事態に陥ることすらある。

(恋人の条件を延々と並べて、誰とも付き合えない)






心の底からラーメンが食べたい人は、
どんな世界の珍味や高級食材を目の前に並べられても、
やはりラーメンを選び、満足するだろう。

それが「答え」だからだ。

自分が何を求めているか分かっていれば、
それに合致するものと出会った時、すぐに分かる。

何を食べたいのか、メニューを全部見てから決めるような態度では、
注文したあとで「やっぱり○○が食べたかったかも」などと
不毛な後悔に心を悩ませることになる。

「答え」のない人は、満足する条件がない人だから、
その定義により、
どんなに恵まれた環境にいたとしても、満足することができない。

しかしまさか、地球上の全ての人に会ってから、
愛する人を決めるわけでもあるまい。






「答え」は、結論と言われたり、着地点と言われたりもする。
日常においては、異なる主張を共存させる妥当な地点という意味もあるが、
ここで僕が書きたいのは、行為者が心に持っている
「あるべき姿」「達成すべき地点」といったものだ。

1万キロ歩くつもりで踏み出した一歩と、
なにも考えずに踏み出した一歩では、
同じ一歩でも持つ意味が変わってくる。

100点を取るためには、120点を目指す必要がある。
100点を目指していては、100点は取れないのだ。
まして目標を設定していなければ、なおさらだ。






「答え」を持っている人は、それを主体的に選んでいる人だから、
答えを実現するプロセスや、実際に答えに到達した時の状況に対して、
責任を持っている。
(「助けたからには責任があるわ」)

この先、どうするつもりか。
どういう世界に生きていたいか。
それが重要だ。
自分自身や、関係のある人、仕事や、社会に対して、
 その未来を思い描き、希望を抱けるからこそ、人は生きていける。

 「存在・価値について」)


与えられたものを、自分のものとして捉え直し、
内側に入り込んで、主体的に取り組むこと。

そこから先は、自分で選んだ道だから、言い訳できない。
(人生だって同じだろう)






自分で選んだ道だから、その過程で何かを失うとしても、
それを失うことを積極的に選択したとも言える。

思うに、選択することをせず、
ただ失うことを恐れている男ほど醜いものはない。
(去る者を引き留めようと懇願するとか/既得権益に固執するとか)






(そういう意味で、女性の方が潔い人が多いように思う。
 このごろは、女性の方が論理的だとすら考えている。

 動いているロジックがあまりに複雑で繊細なために、
 男の方からは訳の分からない、気まぐれに見えたとしても、
 その背景にはやはり条件分岐と取捨選択があるのだ。

 女性がヒステリックになるのは、男の方が非論理的である時だ)






「答え」を生み出す力は、
綿あめ器の中で、芯棒が果たす役割のような
水蒸気が冷えて、水滴に変わる時のような
もやもや、あやふやを定着させる、触媒のようなものだと思う。

「着地」からの連想か、僕の抱くイメージは、「光る足」である。

その足がまさに着地しようとする瞬間、が思い描かれる。

着地する前に、その足は存在せず、
着地した瞬間、その足は消えてしまうのだ。

まるで言葉が、対象のない状態では存在しないのに、
対象と完全に合致した状態では、必要なくなってしまうように。






存在に形を与えるという意味で、
「答え」は、世界という暗闇の中の指先である。

それが示す場所だけに、世界はあって、
あなたが触れたところに、私はいる(definition girl)。

ちょっと男性的すぎるかな。
女性だったら、この感覚をどう表現するのだろう。






ところで、「光る足」や「世界の指先」がその中にある
暗闇とは、一体なんだろう?

また、指先が触れて「答え」が凝固する前の、
固まっていない状態の世界とは、一体なんだろう?

こう考えると、主体が自らを認識するにあたり、
大いなる客体が前提されていることが分かる。






世界の動きを留めようとして、言葉で固定し、とどめを刺す。

言葉で指された世界は、定着するが、すでに死んでいる。

蝶をバラバラに分解しても、その羽ばたく美しさを解明することはできない。
 言葉をバラバラに分解しても、行間からにじみ出る味わいを発見することはできない。

「変身(in the mix)」)






主体の同一性は、
固定した形態を持たず、流動的で、同一性のない、定義される前の世界を、
行動(たとえば労働)において
結果(たとえば生産物)として定着する時に確認される。

(たとえ結果が失敗に終わったとしても、
 何かをしようとしたことが認識されればOK)






答えは、それを求めるものに与えられる。
たとえ問う者自身が捏造した答えだとしても。

そういう意味では、
答えがあるから、問いがあるとすら言える。






「信じる者は、救われる」と言うと
条件に基づく報酬、一定の責務を果たした者への対価という意味も含む。

「救われるために、信じなさい」というメッセージも込められている。

しかし実際には「救い」のプロセスは、ほんの瞬間的な出来事なのだと思う。






つまり「信じている時、救われている」のであって、
行為に対する報酬としての「救い」ではなく、
本当に何かを信じることが出来た時、その人はすでに救われているのだ。

その瞬間、本人は信じることの中に没入しているから、
救われていることに気付くのは一瞬あとのことだ。

そこで「信じて、救われた自分」を相対化したり、
信じることに迷いが生まれると、救いも同時に消えてなくなる。

幸せとは/幸せがどんなものかということを/考えずにすむことではないだろうか?
「definition happiness」)






為そうと思うな。為すと知れ。






あらかじめ答えの用意された問いではなく、
自分でも、どんな答えが出てくるか分からない問いを設定せよ。





巨人の階段

 

なぞなぞです。



どんな大男も、

どんな小男も、

同じ歩幅で歩く道、なんだ?









答えは、階段。


続きは、次回…





カタチを変えた信頼に 換言

 

個人的信頼は、相手の未来へ希望を託す行為を含む。
(「信じてたのに」)

しかし、社会的信頼は過去を根拠にする。

過去の行動が、その人への処遇を決定する。
(過去が立証されなければ、行政罰は下されない)

他人への対応は、経験則に基づいて行われる。

類型的な人物像には、類型化された対応が取られる。

パターンを覚えれば、処理スピードは向上する。
(「この仕事はもう覚えたから次へ行こう」)




型にはまることで、人は安心でき、お互いに信頼しやすくなる。
(文化・言語・習慣・流行・現実認識を共有すること)

特に、お互いをよく知らない間柄で、急に濃密な関係に至る場合、
外面的な特徴が重視されるのは、リスクを避ける上で当然と言える。
(結婚に際しての両家親戚、カードやローンの審査など)

しかし、自ら型にはまろうとしながら、型に合わない部分は悲鳴をあげる。
(国や宗教の対立がある、親がいない、障害がある、犯罪歴がある、借金がある…)

実際の不便さや痛み以上に、他人と比較することで増す苦痛がある。
他人と比較される視線によって増す苦痛がある。

人間は空を飛べない。関節は逆には曲がらない。
目の悪い人がメガネをかけるように、脚がなければ車椅子に乗る。

それだけのことだ…とは、なかなか思えない。




何を求めているかを他人に知られる時、弱点は最大化される。

家族を求めれば、家族を人質にとられた時に抵抗できない。

しかし遺伝子は、家庭を持ち社会を構成して、子孫を残すよう命令する。

子孫を残さないことは社会にとっては反逆と等しく扱われる。
(不妊治療を行う男女は自分を責める、同性の結婚を禁じる宗教の存在)

そこで人は、リスクを負いながらも家庭を持とうとする。




類型化された行動の中でも心を交わし、
社会にコミットしながらも自由であるためには、どうすればいいか。

自分たちが類型の中でもがいていることや、
自らも組織の負担となる無自覚な個人になりうる可能性、
自分の家族が、人質にとられるようなヤワな弱者にならぬよう、
これらに自覚的であることで、可能になると思われる。




類型を拒否する、という類型にも、はまらないよう注意が必要だ。

自由であることは、必ずしも、反社会的であることを意味しない。


 

カタチを変えた信頼に

 
キーワードは「共生」


誰かを信頼するということは、
この人ならきっとこうしてくれるはずだ、と
「走れメロス」のように
未来の相手の行動に対して希望を託すことだと思っていました。

突きつめて言えば、
相手がそのような行動を取りにくい
政治的・宗教的・感情的な状況に置かれていればいるほど、
実際にこちらが望んだ行動をしてくれた時の感動は大きいわけです。

つまり「安全に生き残る」ことではなく、
危険を賭しても、こちらの"信頼"に応えてくれた、というわけで
ある意味では心理的な心中のような関係が発生してきます。




しかし、信頼するということのより正確な意味は、
相手の行動パターンを把握するということ。

つまり「きっと〜してくれるに違いない」と願いをかけることは、
ただ希望を託しているだけであって、信頼とは違うと思うのです。

信頼とは「こういう時、この人はこうする」という
相手の信条・スタイル・人生の指針を知っているということ。

だから、信玄と謙信のようなライバル関係であったとしても、
相手を知るという意味で信頼が生まれることがある。

行動の指針を知るということは、
名前や家柄、学歴や収入を知ることよりも、はるかに深い人間理解です。

それは、相手の過去の行動から推測される未来、
経験則のバリエーションとしての関係構築です。




個人というレベルを越えれば、こんな感じ。

「経営者は労働者を数字でとらえる」
「男は女を横に並べる/女は男を縦に並べる」
「親にとって子供は、いくつになっても子供」


人間というレベルを越えれば、こんな感じ。

「植物は太陽に向かって伸びる」
「水は低きに流れる」




よく言われる「結婚すると出世できる」という話は、

「家族がいるから頑張って仕事をするだろう」ということではありますが、

さらに言うと

「家族を養っていくために、そう簡単には仕事を投げ出せないだろう」という目論見でもあり

穿った見方をすれば

「家族を人質に取られている」ことと何ら変わりないのではないでしょうか?

こんなことを考えるのは、ちょっと性格が悪いのかもしれませんが。




しかし「信頼」というものは、

実際はこのように、相手にとっての利益とリスクを把握し、
お互いに睨み合いながら、綱引きすることなのかもしれない、と思うようになってきました。

つまり

「相手はきっとこのように行動してくれる」という
希望を託す「信頼」よりも

「相手はきっとこのリスクは冒さないだろう」という
不利益から逆算して行動を読むような「信頼」のほうが

世の中には多いのではないか、ということを考えています。




ちょっと話は違うかもしれませんが

いわゆる「ネタ」に反応する笑いは、

僕には、

痙攣に似ているように思えるのです。

学校の実験でやるような、
死んだカエルの脚に電極を差し電気を流して、
ビクッ!ビクッ!と筋肉が反応する様子が連想されます。




スポーツにおいては、反射のスピードを上げることが能力を高めることにつながります。

しかし生きることにおいては、
反射のスピードを上げることが進化とは限らないと思うのです。


人間に対して「キャラクター」という言葉を当てはめることも嫌で、
(もちろん雰囲気や佇まいなど、内から発せられる形容しようのない特質を差すこともありますが)
人物の振る舞いを外部から規定するために「キャラクター」という言葉が使われる場合、
そうされることによって本人が楽になる場面もあるとはいえ、
総合的には、人間性への不遜さを感じずにはいられません。




段ボールやコンテナのように、
中に何が入っているかはともかく、どんどん積み上げていくことができる。

あるいはブラックボックスのように、
何が起きているのかは分からないけど、
投げ込む素材によって、出てくる結果が一定であるようなもの。

「ネタ」や「キャラクター」という言葉から
僕が受けるイメージはそのようなものです。

ある種の不器用な外骨格生物みたいなもので、
どんな気持ちで、どんなつもりで行動したかはお構いなしに、
発した言葉、分かりやすい外見によって「場」での振る舞いを規定されてしまうこと。

確かにその方が扱いやすく、危険も少ないのかもしれないけど、

本当に、それでいいのか?




筋肉質なら男らしい

おっぱいが出てればセクシー

ここは笑う所ですよ

これは泣ける映画ですよ

などなど・・・


記号に反応してるだけなら、カエルの脚と同じだ。

だけど僕は、自分が話をしている相手を、そんな風に思いたくはありません。




だから、コミュニケーションは定型をはずれ、
動きはわざとらしくなり、会話のテンポは脱臼する。

「おかしい」「変だ」「普通にしろ」と言われます。


べつに天の邪鬼でいるために天の邪鬼でいるわけじゃないんだけど・・・

与えられた役割を求められるままに演じることが、
相手を貶めることになるのではないかと思うだけで。

ただ、こんな格好いい理由だけでなく、
おかしな振る舞いをしてしまう僕自身の心理的な障壁というものもあるのですが・・・
つまり、根は単純なくせに、妙にひねくれている所がある。
素直になるのは、難しい。


けれど、驚くべきことに、僕が思うよりずっと
多くの人は、定型的に扱われることを望んでいるらしい。

これも適者生存の法則なのか?




優秀な経営者は決断が早いと言います。

しかしこのごろ、それは正確な表現ではないと思っています。

決断に至る思考が早いのではなく、
独自の判断基準が確立されているから、
それに照らした時、YES/NOが素早く判定できるのではないか。

あるいは「独自の基準」というもの自体も
それが成立したプロセスに自覚的にであるがために、

条件や状況によって、
どこをどう組み替えれば、より望ましい結果が得られるかが
瞬時に分かる。


仕事が早い人とは、作業スピードが速い人のことではなく、
経験を蓄積し、求められているものを予測して動ける人のことだと思います。

料理に例えると分かりやすいかなと思いますが、

手早く料理を作れる人というのは、

野菜などの生鮮食材・缶詰や冷凍などの保存食材・調味料といった素材を常に準備し、
調理器具やキッチンの整頓など、作業環境のメンテナンスもできていて、
どんな時にどんなものを作ると、自分やゲストの満足度が高いかということを知っている

そんな人であって、

決して「動作の素早い人」のことではないと思います。




14歳のころ読んだ本に、
ビジネスパーソン/経営者の常套句である「生き残りをかけて」
という言葉を「浅ましい」と切り捨てている文章があって

衝撃を受け、今でも振り切れずにいます。




うまく切り抜けること。
責められないようにすること。
リスクを回避すること。
生き残ること。

これは生物としての大原則であり、従うべき重要な法則ではあります。

しかし時として、リスクを冒すからこそ、
自分がその選択に賭ける気持ちが純粋であると表明できることも
身を危険にさらすと分かっていても行動することで、潔癖さを表現できることも
死を賭して、あるいは、家族や生活を犠牲にして取り組むことで、事の重大さを伝えることも
陶酔をはらむ危険な可能性として、存在するのだと思います。

究極的には、生きることに囚われないことこそが、自由でいることなのか?

なにがなんでも生き残ろうとすることは、果たして「浅ましい」のだろうか?

このごろ分かってきたことは、
自分自身のためだけに、周囲を犠牲にして生き残ろうとする姿勢は、浅ましいかもしれない。
ただ、誰かを、何かを「守ろうとするために」生き残ろうとする姿勢は、美しいことがある。

たとえ、行動そのものはエゴイスティックだったとしても、
家族を守ろうとする行動であれば、一面には美しいと言えることがある。




注意したいのは、生きることと、生き続けること、は違うということです。

仕事でも人間関係でもそうですが、
今ある状態を「このまま存続させよう」と思った瞬間に、なにかが壊れるような気がします。




生物は遺伝子の奴隷ではない。

人間は記号に操られているわけではない。

僕らは、もっと自由でいられるはずだ。


しかし、自由とはなんだろう。

自由を定義しようとすること・・・

なんだか、それ自体、言義矛盾に陥っているような気がします。




変数や代数のように、
不定形なら不定形なものとして扱うことは可能です。


主張しない人は、主張しない人として
ゴチャゴチャうるさい人は、ゴチャゴチャうるさい人として
そういうものだと決めて扱えば、ある種の静けさは訪れる・・・

ときに不定型、ときに固形、柔軟かと思えば頑固、というような
状況によって振る舞いを変えるような行動を取ると、
その根拠となる基本的な指針を理解してもらえず、
結果的に信頼されない、ということになります。

指針がなければ、信頼されることもない。

ポリシーなき事業は、誰からも相手にされない。


例えば、バラしか売らない花屋というものがあったら、
皆がいつも必要とする存在ではないかもしれないけれど、
少数のファンによってお店は支えられていくような気がします。

一方、あれもこれもと手を出して、ポリシーを失い、
中途半端になって没落していく例は枚挙に暇がありません。




リスクを回避して生き残ろうとすること自体は
生物として自然な行動だと思います。

しかしそこに、政治、汚職、談合、癒着といった
ワードが絡んでくると、事情は変わって来ます。

隠れて、フェアではない、不正な、生き残るための取り組みは、
堂々としていないだけでなく、卑怯で、後ろ指さされる、
器の小さい人間のすること。

問題は、フェアであるかどうか、なのか?

フェアであるということは、リスクを冒すということなのか?




機転が利いて知性的と思っていた先輩の行動が

実は、集積された処世術にすぎないと分かったときの失望といったら。




自分自身の保身をせず、
公明正大、合理的、論理的に振る舞える人は立派だと言われますが、
そもそも生物は、人間に近くなるほど非合理的な振る舞いが増えるのではないでしょうか?

微生物や昆虫の世界は、残酷なほどに論理的で合理的です。


人間は、生まれてから一人前になるまでにかかる期間が長く、
ものごころつく前の、無意識の状態があることも影響するのか、
生存を保証された状態で思うままに行動すれば、
欲望に流されて自滅に至ることさえあるという、奇妙な生物だと思います。


人は人に生まれるのではない、人になるのだ。というわけで。




人間関係というものは、
お互いにしがみつきながら宇宙空間を吹き飛ばされていくようなもので、
絶対的に安定したフィールドで展開されるものではないと思っています。

孤立している人。

ひとりで浮いてる星みたい。

だけど、宇宙は常に膨張していると言うし、

高質量の物体とともに、重力の影響範囲も常に移動し、影響を及ぼしあうこの宇宙にあって、

本当に孤立することなど可能なのだろうか?




世界は影響だらけ、関係だらけならば、
その中で動くためには、定形/不定形の両方の力を使い分ける必要があるのでしょう。

お互いに利用しあっているだけに過ぎないとしても、
絶滅しないために生命が「共生」という道を選ぶように。

自分に与えられた役割と立場を理解し、それに応えながらも、
人のことを型にはめて貶めることのないように。

誰かに過剰な希望を託すことも、不利益で囲い込んで利用することもないように。

よくよくバランスを見極めなければならないのだと考えています。




経済的に自立すれば、もっと自由でいられるか?

自分の裁量で判断できる仕事をすれば、もっと自由でいられるか?

人間関係の中で政治的に優位に立てば、もっと自由でいられるか?

孤立すれば、もっと自由でいられるか?

色々試してきたけれど、分かってきたことは、
そこには僕自身の態度保留や、現実逃避も含まれているということです。

自由でいたいとうそぶいて、決断を回避しているだけという状況もありました。

ただ、自分自身の心理的な障壁に自覚的であることができれば、
現実にコミットしながら自由であることも可能ではないかと考え始めています。


自分自身を、問題としてではなく、
答えとして、現実の関係の中に投げ出すことができれば・・・




「自由」とラベルを貼られたスタイルに呑み込まれることを拒否します。

カップラーメンを食べながら、フカヒレスープを語るような人間にもなりたくない。

自由でいたいという気持ちからも、自由でいたい。





次回予告:「答えのある人は幸いである」  

おしゃれ通信

どこかの田舎のおじいちゃんが、気に入っていつもかぶっている帽子がある。

なんの変哲もないキャップ帽で、全体が鮮やかなイエロー。
つばもイエローなら、後頭部のメッシュの部分もイエロー。
黄色いプラスチックってひときわ目立つよね。

おでこの所だけ白くて、そこには「Dole」と書いてある。
そう、あのフルーツジュースのDoleのロゴが・・・

おじいちゃんが何故その帽子を好きなのかは分からない。
人が聞いてもただニコニコして笑っているだけだからだ。

でも娘は、その帽子のことが好きじゃない。

なんでDoleなの?

おじいちゃんはずっと八百屋をやっていて、
何かのキャンペーンでもらったのだ。


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だいたい、娘が小学校5年生の時の授業参観にも
Doleの帽子をかぶってきて、同級生には笑われるし、恥ずかしくて仕方なかった。
好きだった男の子も笑っていて、その日は家に帰ってから泣いちゃったんだ。

娘が結婚する時だって、まだ若かったおじいちゃんは
商店街の貸し衣装屋さんでモーニングを借りてきて、
似合わねぇなと照れくさそうに笑ったあと、
最後にDoleの帽子をちょこんと頭にのせた。

花嫁はさすがに怒って、
懇願して式と披露宴の時には帽子をやめさせたんだけど、
披露宴で酔っぱらった父親は、お客様のお見送りの時に
やっぱり帽子をかぶっちゃったんだよね。

そのことを娘は今でも恥ずかしく、腹立たしく、恨めしく思っている。
自分の一生に一度の晴れ舞台が、コメディーにされてしまったのだ。


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今では母親も亡くなって、おじいちゃんは仕事もリタイア。
娘夫婦と一緒の家で、土いじりをしたりして静かに暮らしている。

散歩が趣味なんだけど、娘は、自分の父親が毎日、
派手なイエローの帽子をかぶって外を歩くのがイヤで仕方がない。

年も年だし、おかしな恰好をしてウロウロしていると
頭がボケてきたんじゃないかと近所の人に思われる。


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いつもニコニコしているおじいちゃんには友達がたくさんいる。
花の育て方をアドバイスしてくれる花屋の青年とは、
仕事をリタイアして、散歩エリアを広げた頃に知り合った。


娘は知らないんだけど、
月に1回参加するゲートボール・クラブでは、
おじいちゃんに好意をもっている老婦人がいる。

ゲートボール場の中から、待ち合わせの時間ぴったりにやって来る
おじいちゃんのイエローの帽子が見えると、それだけで嬉しくなっちゃうんだ。

イエローの花や、建物や、食器を見るたびに、おじいちゃんのことを思い出すんだって。


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僕はべつに、おしゃれに縁が深い生活をしているわけではないですが、
年をとるにつれて、おしゃれにもいくつか種類があるらしい、
ということが分かって来ました。

1つはセレブリティのおしゃれ。
華やかなファッション業界から社会に放たれる、最先端で高品質なおしゃれ。

そして、イニシエーションとしてのおしゃれ。
冠婚葬祭や、状況、立場に合わせてふさわしい恰好をするということ。

最後に、心のおしゃれ。
何の役にも立たないけど、それがあるだけで本人の心が弾むようなおしゃれ。
リボンにこだわったり。お気に入りのアイテムとかね。


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ふだん、質素な服装をしている人が、華やかな席に臨んでおめかしするのは、
身に付いていないからファッショナブルじゃないだろうけど、
人生や生活の節目を大事にするという意味で、とても素敵なことだと思います。

でも例えば、インドの女性が、日本人の男性が結婚することになって、
結婚式でサリーしか着ないということになったら、
それは非常識なのか、おしゃれ(誇り/礼儀)なのか?

そして人生の幕を閉じる時、死に装束として着る衣装はどんなものか?
ファッションとはイニシエーションに由来するものであるならば、
その根源は実は、死に装束にあるのではないでしょうか?

その服を着て、死ねるか?


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僕と同じくらいの世代の人は、
10代なかばで、阪神大震災や、地下鉄サリン事件の発生に立ち会い、
平穏な日常は、いつでも、理不尽に破壊されうるのだということを
心に刻み込まれたのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。

意識していてもしなくても、そういう恐れとか諦念みたいなものは、
人の言動に大きな影響をおよぼしているのかもしれません・・・


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今、その服で、死ねるか?
今の人間関係で、死ねるか?
今の仕事の状態で、ここまでのキャリアで、死ねるか?
あの人とのコミュニケーション、今の状態で、死ねるか?

ありきたりですが、
刹那的だったり捨て鉢になるのではなく、
死の方から生を見ることで、
分かってくることがあるのかもしれません。


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ともあれ、30になってようやく
儀式やイニシエーションの大切さが分かって来たとは言え、
僕自身は、自分の成人式にも参加しなかったのでした。

やれやれ。


  

変身(in the mix)

 

楽しく変形するボールを手に入れました!

その名は「Switch Pitch」
空中に投げると色が変わります^^


swich_pitch.jpg





Switch Pitchのページ
http://www.hoberman.com/portfolio/switchpitch.php?projectname=Switch%20Pitch

作者のサイトTOP
http://www.hoberman.com/home.html

楽天市場
http://www.rakuten.co.jp/rangsjapan/716899/


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変身、拡張された身体イメージは僕のテーマのひとつです。

例えば、今年の夏に描いたこんな作品・・・

これは極端にビジュアルが変わる例ではありますが、

前 → プロセス → 後

という3コマの流れを辿る意味で、Switch Pitchと同じとも言えるかと思います。

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1 → 2 → 3

という直線的な変化ではなく、
その途中に、どちらでもあり、どちらでもないような
あいまいな領域、形態がミックスされたような状態があるところがポイントです。

つまり、A → X → A' という流れ。

変身といえば、昨今のコスプレブームや、変身写真スタジオ、
男性のメガネやヒゲの流行・一般化など、
単なる「装飾」としてのファッションではなく「仮装」「変身」としての
ファッションが、様々なレベルで広まっています。

そこには、日常とは異なる世界への憧れや、
いつもとは違う自分への憧れや、
匿名性への志向(ファッション化したメガネが仮面でなくて何であろう?)が
見え隠れするのですが、僕がここで書こうとしている「変身」は、これとは少し違います。

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mixi の名前の由来は「i」つまり個人をミックスする、という意味だそうですが、
僕が考えているのは、これとも少し視点が違います。

個人も、というか、あらゆる存在は、
お互いに常にミックスされているのではないか、ということです。

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子供むけのアニメーションの、お話のオープニングでよく
「さて、今日はどんな出来事がおきるかな?」
といったナレーションが入ることがありますが、
この感覚が、けっこう侮れないものではないか・・・と感じています。

どんなに似ていたとしても、
昨日と同じ今日はない。今日と同じ明日はない。

分かったような顔して、一期一会とか言い逃げしたいわけでもなく、
かけがいのない今を大切に、とか甘い言葉を吐きたいわけでもなく、
実存的な問題として、僕はこのことを考えていきたいと思っています。

実際の世界は、日々変化しているのだから、
完全に安定して変わらないものなど、すべて嘘なのだ
と言えるのではないでしょうか?

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個人でも組織でも会社でも国家でも、
流動的なエネルギーが活発な黎明期を過ぎ、
何かを固定化し、安定期にさしかかったところで、
停滞が生まれ、やがて衰退していく。

自分が生きている世界を、生き生きとしたものにしておきたいのならば、
自分自身を固定化させずに、開いている部分、流動的な部分を
意識的に残しておく努力が必要なのかもしれません。

きのう食べたものが、今のあなたの一部なのだとしたら、
明日食べるものも、あなたの一部なのだと言えると思うのです。

つまり、まだ存在していない未来にも、あなたがいる。

未来をイメージした時点ですでに、あなたはプロセスの中にあるというわけで・・・

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「過去」と「未来」をミックスする、
そのプロセスの中に「現在」があるのだとしたら、
現在とは流動的で可変的なものであり、留め、指し示すことはできません。

つまり、厳密に言えば「現在」という時間は存在しない・・・
そんな仮説が頭に浮かんできます。

たぶん似たイメージとしては、マリオに出てくる空中リフト(笑

mario.jpg

空中に浮かんでいて、マリオが乗ると落ちてしまうやつ。
マリオはリフトが落ちる前に、次のリフトに飛び移らなければならない。

こうした空中リフトに似た「現在」を、次々と飛び移りながら、
連続体としての「自己」を維持しているのが、私たちなのではないでしょうか?

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つまり、「現在」が存在しないならば、「個人」もまた、存在しない・・・

個体とはあくまでも、一時的な安定を得た流動体なのであって、
低気圧と高気圧の間に厳密な境界線などひけないように、
その輪郭は実は存在していない、個体を環境や関係から切り離すことはできない、
という発想です。

もう少し正確に言うと、密度の違いとして個体を定義することはできるけれども、
その境界線には、どちらでもあり、どちらでもない、
泡のように溶け合い、お互いにミックスされている、
エリアというか、レベルがあるような気がしてなりません。

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未来のあなたと、現在のあなたの間に、厳密な境界線がないように、
私とあなたの間にも、厳密な境界線はひくことが出来ないのかもしれない。

なぜなら、あなたのイメージの中の私もまた私であり、
国籍や性別、教育や出身地によってカテゴライズされる私もまた
まぎれもない私という存在の一部であるからです。

汚いゴミを見ながら食事をしたくないのは誰でも同じだと思いますが、
それは見ている光景と、自分が食べているもののイメージがミックスされるからで、
好きな人や憧れの人と同じ空間を共有したい、という欲求もまた根底は同じかと。

自己のイメージは外部に投影され、外部の環境は内部化されていく。

こうした存在の相互作用(ミックス)は常に起こっているもので、
私が誰かの手に指先で触れるとき、私もまた相手の手によって触れられる、という
主客の逆転、または混濁という状況が、ミクロなレベルで作り出されているのだと思います。

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この見方を突きつめていくならば、おそらくこう言うことができるでしょう。

肉体は死んでも、存在は消えない。

よく弔辞などで、
「故人の存在は、私たちの心の中で生き続けていきます」といったことが語られるように、
これは迷信でも宗教でもなんでもなく、一般常識と言えるのではないかと思っています。

科学や論理で証明できないから、誰も断言はしないけれども、
感覚として、分かっている。

僕の言葉で言わせてもらうならば、存在は「ミックスされている」ということを。

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蝶をバラバラに分解しても、その羽ばたく美しさを解明することはできない。
言葉をバラバラに分解しても、行間からにじみ出る味わいを発見することはできない。

存在の本質とは、言葉にならない、それと指し示すことのできない、
そんなプロセスの中にこそあるのではないか、という気がします。

ミックスを日本語にできないので、英語で表現するならば・・・

The world will fix us in the mix.
We can fix the future in the mix !

世界が私たちを組み立てていく。ミックスしながら。
私たちが未来を組み立てていく。ミックスしながら!


未来を固定されたものとして捉え、
なんの変化も受け入れられないならば、そいつはすでに死んでいるのだ。


「さて、今日はどんな出来事が・・・?」

 


ギブだぜ!



10年くらい前、ポケモンの放送事故があったころ、
どこかの雑誌のコラムで、誰かがこんなことを書いていた。

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ポケモンの決めゼリフ「ゲットだぜ!」は、搾取の論理だ、

得る者と失う者を同時に作り出すグローバリズムだ、

本当に人々を幸せにするのは「ギブだぜ!」の精神なんだ・・・

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このライターがどこまで本気だったのかは分からないけど…(^^;
最近はちょっと共感できるような気がする。


むかーし、好きだった女の子を、
自分が気に入っているレストランに連れていったことがある。

次の週末、その子はべつの友達と一緒にその店に行った。
気に入ってくれたのはいいんだけど、何かひっかかるものが・・・

僕が彼女に届けたものは、ただのお店の情報だったのか?

いや、届けたかったものは、そうじゃない。
2人で気に入ってる店にしておきたかったんだよなぁー・・・

この違いを結局その子に分かってもらうことはできなかった。

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どんなにセンスが良くても、お金があっても、
目の前にあるものをただ受け取って使っていくだけなら、
しょせん消費者にすぎない。食い散らかしてるだけだ。

食べたいもの・欲しいものが目の前にないとき、
「じゃあ買ってきましょう」と考える人と、
「じゃあ作ってみましょう」と考える人とでは、
世界に対する姿勢がやっぱり根本的に違うのではないかな・・・

環境や状況や人間関係に対してクリエイティブでいられる人は、
その脆さや限界を知っているからこそ、自分で構築することもできる。

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重要なのは、自分自身を、答えの一部として、
この世界にどう定着させることができるか、じゃないかと。

人の精神の高貴さは、何をどれだけ持っているかではなく、
どれだけ人に分け与えられるか、で決まるのではないか?

人に色々なものを分け与えて、その人はどんどん失われていくけど、
そうすることで逆に、他の場所にその存在が強く
編みこまれて行くんだと思う。


こういうパラドックスを越えて、人は生きていくんだなぁ。

僕も自分の持てるものを、喜んでくれる人に少しでも
分けてあげられるような生き方をしたいです。


ギブだぜ!




存在・価値について

〜以下引用〜

[マルクスが]『資本論』で経済的価値を「使用価値」と「交換価値」のふたつに明瞭に分けたのはとても重要なことだと思います。

つまり、水や空気には「使用価値」が無限にあるし、それは無限にのびていくかもしれないけれど、ふつうに「価値」と考えられている「交換価値」はゼロである。

天然水も空気も、お金を出して飲んだり吸ったりしているわけではないから、何かほかのモノと取り換えるわけにはいかない。(中略)


それに対して「交換価値」というのは、時代を追ってかたちが変わってきますけれども、何かと換えてもらえる一定の価値のことを意味しています。

先ほどの話でいえば、一個のリンゴはオレンジ二個と交換してもらえる。そうした交換価値を突きつめていくと、何とでも交換してもらえる物に突き当たる。それが貨幣です。


貨幣というのは、何かを食べたり何か事業をしたり、つまり自然に対して何らかの営みをする場合、何とでも交換できる。ここに貨幣の重要性が出てきます。

(吉本隆明『日本語のゆくえ』光文社2008年)


価値増殖のトリック


労働者は生産の対価として報酬を得ます。一方、経営者は、生産物を市場に流通させることにより利益を得ます。


労働によって生まれた「生産物」を中心に、経営者の視点で見ると、
労働者に対しては「生産物」に対する「交換価値」として報酬を支払い、
市場に対しては「生産物」の「使用価値」として販売価格を設定する。
ここにビジネスにおける価値増殖のトリックがあります。


商品の「使用価値」は、用途と目的の設定や、需要の多さに比例して増大します。

おそらくこれが、価値の増大を前提とする経済の基本ルールなのだと思います。


交換価値の蓄積


一方、人類の社会に貨幣が登場したことにより、価値の蓄積が起こるようになりました。

それ以前には、価値とは家畜や農作物など直接的に「使用価値」を持っているものであり、長期間の保存や長距離の運搬、遠距離にいる相手との交換には向かないものでした。


価値の蓄積によって貧富の差が生まれ、身分の格差が生まれたと言われています。

この変化はその後、共同体の発展や国家の誕生に大きな意味を持ったようなのですが、今はその話は置いておきたいと思います。


手段の目的化


蓄積された価値は、現代では「資産」として抽象的な概念として所有することが可能です。
人は自ら望む幸福を得るために働き、対価を得て、将来に備えて貯蓄をします。
病気や事故、または自分の死後に残される家族のために資産を残すという発想は健全だと思いますが、時に、資産を増やすこと自体が目的化していくこともあるようです。

そうなると、本来は使用するために蓄積していた「価値」が、それ自体独自の価値概念を持ち始めるような気がします。

「資産が○○円ある」ということは、それに対応する商品を購入する能力があることを意味するわけですが、「資産が○○円ある」ということ自体が、価値になってしまっている状態です。


このように手段が目的化してしまっている状況下では、本人が望んでいた“幸福な状態”というものも、貨幣と同じ抽象的概念になってしまうのではないでしょうか?


例えば美容の世界では、「キレイ」「カワイイ」ということが絶対的価値であるかのように吹聴されている印象を僕は持っているのですが、これも実は“手段が目的化している“状態なのではないかなぁと感じます。


つまり、「キレイ」だったり「カワイイ」状態であろうとすることは、それによって誰かに愛されたり、幸せを手に入れられると感じているからだと思うのですが、究極的なことを言ってしまえば、醜くても、きたなくても、愛されてるならOKなわけですよね?


対象を失って「キレイ」「カワイイ」だけを蓄積することは、なにか本質を見失っているように思われます。無人島でメイクばっちり決めてても滑稽というか・・・


交換価値のコスト


このような”価値の抽象化”が起きている一方で、労働者が提供する「交換価値」を作り出すことは非常にコストがかかるようになってきているのではないか、と思います。労働者が提供する価値とは、基本的には生産能力なわけですが、現代日本のようにサービス業の割合が多くなった社会では、生産とはサービスを意味することが多くなるように思います。


端的に言って、「労働」というものが、技術や生産能力を提供するというより、自らの肉体と時間を提供するという意味合いが強くなっているのが現代社会だと言えるのではないでしょうか?


このことは、労働に対する報酬がしばしば時間の単位で計算されることが裏付けています。

時給、日給、月給、年俸・・・こういった時間の単位で報酬を受け取っている人は、生産能力よりもサービスを提供することによって雇用されていると言えるのかもしれません。


サービスという価値


この視点を突きつめていくと、報酬の対象となるのは、提供できるサービスの内容であり、技術的な部分を無視すれば、その人の人柄やキャラクターによって、受け取る報酬が決まってくると言うこともできます。


分かりやすい例で言うなら、チームに活力をもたらしてくれるムードメーカーやビジョンを持っている人、顧客の要望に柔軟に対応できるコミュニケーション能力や、場を盛り上げる“笑い”のセンスがある人など・・・


ここ数年のお笑いブームや、ビジネスの場で言われる“ヒューマンスキル“といったものは、こうした形のない価値を重要視する風潮から自然に生まれてきたものなのかもしれません。


コミュニケーションの交換価値


労働に限らず、コミュニケーションのある場所にも「交換価値」というものがあるとするなら、それは共通のバックグラウンドを持っている、つまり“話が通じる” ということかなと思います。


現代社会においては、“通じる“話題をたくさん持っている人ほど高い価値を持つということになり、最新の流行を知っているだけで「センスが良い」と言われたりする局面もあったりして、なるほど、情報はなによりも重要なわけですね・・・


ところで、お互いの意志を正確に疎通させるために、より広いバックグラウンドを持つことは重要とはいえ、一方でここでも、手段である“情報を持つ“こと自体が目的化する危険はあるような気がします。


例えば、同じミュージシャンやお笑いタレントを知っていることでお互いの理解が深まることはあると思いますが、ただ“お互いがそれを知っているということ”のみを確認しているだけの会話というものもあります。


個人的には、共通の話題について話をすることで、「お互いがどんな人間であるかが分かる」ことが重要だと考えているので、ただネタやキャラクターを「知ってる知ってる!」と確認しあう行為には、不毛なものを感じずにはいられません・・・


行動の動機


そんな危険と隣り合わせだとしても、人が最新の情報を得ようとするのは、やはり他の人とコミュニケーションを図るためであり、情報を共有することはすでに生きることの一部になっています。


共通の情報ネットワークの中にいる人たちにとって、そこに属さない人は無価値であり、同じ空間にいたとしても、存在していないと同様に扱われます。

私たちはそのネットワークから振り落とされまいと情報を共有しようとするのですが、その行動を支えているのは一種の恐怖や強迫観念であったり、被承認欲求なのかもしれません。

しかし、損害や罰をおそれて行動することや、報酬を求めて行動するということは、ごく自然なこととはいえ、ある意味では動物的な行動と言えるのではないでしょうか?


仕事に置き換えるなら、褒められるから頑張っているうちは半人前で、誰にも気付いてもらえなくても完璧な仕事をするようになって、初めて一人前と言えるのではないか・・・などと思ったりするのですが、どうでしょうか。


もう1つの価値


たぶん本当は、ものの価値にはさらに深いレベルがあるのではないかなという気がします。

たとえ誰にも共有してもらえない、通じない感覚だとしても、自分自身にとってだけ価値がある、というもの・・・それは思い出だったり、人との絆だったりして、交換したり定量化することはもちろん、使用することで価値を増殖させることもできません。


他人にとっては取るに足らないありふれたものだったり、何に役にも立たない、言葉では説明することも難しいようなもの。自分自身の世界観を形成し、自分がどんな世界に属しているかを教えてくれる、ルーツのようなもの。

そういう価値を、とりあえず、ありふれた言葉ですが「存在価値」と呼んでみたいと思います。


3つの価値


異なる存在の間で交流やコミュニケーションを発生させる「交換価値」を中間として、
上のレベルには、用途の設定(見立て)によって魔法のように増殖した「使用価値」があり、
下のレベルには、その存在自体の無意識の闇のような所で存在を裏付けている価値がある・・・
というようなイメージです。


存在=価値

ただ、個人的に、存在するものとは、
それが存在するということ自体がすでに価値なのだと考えています。

存在することで価値や意味があるのではなく、
価値や意味があるから存在しているわけでもなく、
存在することイコール価値。


分かりやすい例で言えば、生物としては、
今ここにこうしているという事実だけで、勝者だと言えるわけで。


ただ僕が言いたいのは、生物でないものの存在の価値についても含めたいので、
この例だと漏れてしまう範囲が広いのですが。


存在=未来


それから最近考えていることとして、
存在とはそれ自体で完結するものではない、という感覚があります。

他者あっての自己、自己あっての他者というわけで、存在は関係から切り離すことはできない。


あなたが今読んでいるのは、私の残した残像にすぎず、すでに私はその先に進んでいるように、
現在という時間もまた存在せず、連続した時間から切り離すことはできないものです。


自分自身や、関係のある人、仕事や、社会に対して、
その未来を思い描き、希望を抱けるからこそ、人は生きていける。

だとすれば、人生とは、まだ訪れていない時間をも含む概念だと言えるのではないでしょうか。
また、存在とは、まだ訪れていない成長や可能性をも含んでいると言えるのかもしれません。


今、何かができるから価値があるのではなく
(逆に言うと、何かができないから価値がないのではなく)、
未来に向けて可能性が開いて、それ自身発展・成長していく萌芽を抱いているから価値がある。


「存在すること」・・・「ある」とは、そんな、
外側から規定されなくても内から自然にエネルギーが
湧き出てくるようなものなのではないか?と考えています。

そういえば、存在=existenceの語源は、ex-sistere「外に立ち続ける」という意味なんだそうです。


続きます。


“私”をめぐる考察



東京国立近代美術館に
わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」を見に行きました。


フランシス・ベーコン船越桂草間彌生ほか20名以上ものアーティストの作品を紹介し、
不安定な「私」多様化する「私」見失われる「私」生まれつつある「私」など…
「私」をめぐる認識に揺さぶりをかけてくれる展覧会です。


荒川修作と茂木健一郎の対談を本で読んだとき、
その中で荒川修作が言っていた「自分の外に自分のからだを作る」という意味の言葉が
個人的にとても面白く、今まで考えてきたあれこれが色々繋がっていくような感覚を
もっていたこともあり、刺激をもらうことができました。


その後、恵比寿の東京都写真美術館で「映像をめぐる7夜」というイベントの
「映像の知覚」という、飯村隆彦と豊嶋康子のトークショウに行く予定だったのですが
(恥ずかしながら僕は2人ともどんな仕事をされてるのか知らないのですが、
 テーマが「私をめぐる知覚の虚実を分析的に問題化する」という内容だったので)
当日先着順のため、直前に行ったため入れず・・・残念。


仕方がないので近くのカフェに入り、頭の中に浮かんでいるイメージやフレーズを
忘れないうちに書き留めておくことにました(なにしろ非常に記憶力が弱いので…)。

と、いうわけでつらつら1時間ほどかけて書いたのがこちら。




ちょっとサイコな感じになってしまったので^^; ぼかしてますが・・・

感じのいいカフェだったのでかなり集中して作業できたけれど、あやしいよな…笑




考えながら書いていくと、「あ、こんなことも考えたことある」「これも」
って感じで、どんどん“かつて考えたこと”の断片が出てきまして。

だいたい、6つぐらいのパートに分かれることが分かりました。

ただ、これらの思考の断片が、全体としてどんなメッセージを持っているのか、
恥ずかしながら、自分でよく分からない状態なのです。

自分で考えたからなのか、当たり前のことばかり書いてあるような気がするし。


いくつか書いてみます。






私には、まだ存在していない部分が含まれている。


私を作る私と、私によって作られた私、どちらも私である。


自己と世界は、区別することはできるが、異なるものではない。


私は、私ではないものと混じりあうことによって、私である。





このへんまでがこれまでの僕の認識で、狭い範囲にとどまっているので、
どうにかもっと広い世界へ認識を進めたいと思っているのですが…


存在は関係から切り離すことはできない、動き続けているものである


ってあたりがどうもキーで、たぶんリアリティが問題になるんだけど、
僕自身、あまり周囲に体当たりで自分を表現したりするタイプではなく、
関係している人や事象にリアルに向き合っているとは言えない感じなので、
つまずいてしまいます。


<太った女を描くべきだと思うけれど、太った女が描けない>





たぶん糸口は、昔ある人が言っていた、こんな言葉の近くにあるような気がします。


「自分自身を、問題としてではなく、答えとして、投げ出すんだよ」


まだまだ考えてみます。




可能性の話

最近の気になる言葉、悪い意味で。

それは、「確率」と「可能性」の使い分け。

仕事でも、仕事以外でも、工夫や改善をしたり、何かを意図的に操作してみる時、
「○○を××した方が、成功する確率が高くなる」という言い方が気になります。

「確率」という言葉から僕がイメージするのは、
純粋に偶然が支配する世界。サイコロの目。

工夫や改善をしようとしているはずなのに、偶然に身を任せていいの?

野球がうまくなりたくて一生懸命練習した結果、
試合に勝つ「確率」が上がるのでは、なんともやるせない。

なぜ「可能性」ではなく「確率」という言葉を使ってしまうのだろう。

もしかしたら、「可能性」と言うより「確率」と言った方が、
操作している人の「意図」が薄まる印象を与えることができ、
それによって「責任」も回避するような心理が働いているのかな、と思います。





可能性といえば、世の中には「仮説的思考」と「網羅的思考」というものがあるらしい。

「仮説的思考」は、ある問題に対してまず答えを仮定し、
それを裏付ける証拠があるかないかで仮説を検証、
誤っていれば仮説を補正してさらに検証していくという思考方法。
イメージとしては、屈折しながらも目的地に最短距離で届こうとする稲妻のような。

「直感」と似ているけど、得ている情報から論理的に予測するという意味で、
自身を裏付ける証拠のみを参照していない限りは、決定的に異なります。

「網羅的思考」というのは、ある問題に対して
関連する情報をいったん出し尽くしてから、因果関係を予測していく方法。
イメージとしては、まさに「しらみ潰し」にジワジワと焦点を絞っていく感じ。


解決にたどりつくスピードは、「仮説的思考」の方がはるかに早いことが多く、
日常生活でも仕事でも、重宝されるのは「仮説的思考」の方のように思われます。

今あるものは何、完成形はこれ、では足りないものは何で組み立て方はこう。
といった風に。

「網羅的思考」というのは、今あるものはこれだが、もうすぐあれも揃う。
Aと見えているものはBとしても使えないかとか、余計な枝葉が多い。
博物学的なアプローチなので、些細な変化や、放っておくと消えてしまうような
可能性(絶滅危惧種だ)など、辺縁の細部を拾い上げていくようなパワーは
あるのだけれど、いかんせん効率的ではないようで、人気がありません。




どうも僕は「網羅的思考」のタイプのようで、ついつい考えが寄り道したり、
必要ないけど面白く感じた部分にこだわったりしてしまうのだけれど、
アタマで分かってはいても、なかなか思考パターンというものは変えられません。

(特に好きでないものから食べたりするのも網羅的アプローチかなと)

このごろはWEBシステムの中のプログラムを手探りで考案しなければならない場面も多く、
色々な人の力を借りながらなんとかやってるけれど、
プログラムの明快な処理を見るにつけ、「仮説的思考」を
自在に操れるようになりたいなぁと思う日々です。

とは言え、それが見落としてしまう大事なものもあるような気がするんですけどね。


何から身を守らなければならないのか

スキン+ボーンズ-1980年代以降の建築とファッション」を見てきた。

skinbones.jpg

1.共通の概念
 シェルター アイデンティティー
2.形態の生成
 幾何学、ヴォリュームの構築
3.構成の技法
4.両者の融合

といった流れで、著名な建築家・ファッションデザイナーの作品を
多数展示している意欲的な展覧会。

フセイン・チャラヤンて好きだな。


ところで、1.共通の概念のところでいきなり違和感を感じてしまった。

洋服も建築も、身を守る、あるいは自分自身を維持するための
物理的/文化的シェルターである、というところから
この展覧会はスタートするのだけれど、「そうかぁ?」という感じ。

考えてみれば温度や湿度など環境の変化から身を守る、という
機能がファッションと建築の第一義なのかもしれないけれど、
現代東京で都市生活を営む身としては、そういう「防御」としてよりも
「表現」としてのファッションや建築の方が想像力を掻き立てられる。


僕自身は、素直な建物が好きだし、着る服もごく平凡なもの。
だけれど、自由を表現するための想像力のエクササイズの場として、
身体・ダンス・ファッション・建築・空間というものを
ポジティブに捉えている自分に気づかされた。

表現している内容を表すのに、
「歪んだ身体イメージ」という言葉をずっと使ってきたけれど、
これはわりとネガティブなイメージであって、
傷つき、ダメージを受け、抑圧されたものと考えていた。

しかし僕が本来表現したいのはもっと別なものであって、
それを表すためにはちょっと角度を変える必要があるのかもしれない。

たぶんもっと素直に、「拡張された身体イメージ」という感じ。


ヒゲも、メガネも、化粧も、ハイヒールも、髪の毛も、体臭も、
服も、しぐさも、ダンスも、言葉も、歌も、ハーモニーも、
住み慣れた部屋も、通い慣れた道も、好きな場所も、亡くしたものも、
予感も、雰囲気も、記憶も、無意識も、まだ見ぬ自分自身も、
すべて自分という身体イメージを構成する要素だろう。

絶えず変化し、もとの自分にあらず・・・

また、当たり前のことを言ってるな。まぁいいや。


ちょっと、楽しいものを作りたい気分です。





おまけ付き

あなたのツボにはまる、豪華な「おまけ」付きの
美味しくないお菓子と、

おまけは無いけど、あなた好みの美味しいお菓子と、

どっちを選びますか?

++++++++++++++++++++

いま考えているのは、巡り合わせということです。

誰かに仕事を依頼したり、会社に発注したりするとき、
相手がどれだけのことをしてくれるか、という基準がまずあると
思うんですが、それ以外に「おまけ」があるような気がするんです。

例えば、

他と同じクオリティーだけど「とにかく早い」とか
他と同じクオリティーだけど「とにかく安い」とか
コミュニケーション能力が高いから「説明がラク」とか
センス・好みが似てるから「任せれば安心」とか

いつも発注してるから「急な仕事もやってくれる」とか
いつも発注してるから「細かい仕事はタダでやってくれる」とか

「お中元・お歳暮に良いものをくれる」とか
「いつも良い接待をしてくれる」とか
「用がなくても連絡を取ってきて世話を焼いてくれる」とか
「こちらが必要としている業界の情報をこっそり教えてくれる」とか
「容姿が好み」とか
「出身地が同じ」とか
「出身校が同じ」とか
「名字が同じ」とか


僕が「おまけ」と呼んでいる内容は、
「仕事と直接関係ないことだけど、気に入られる要素」
ということです。

なくてもいいけど、あったら嬉しい。

おまけ付き。


++++++++++++++++++++


時に、「おまけ」の価値が、本体の価値より重視されることもあって

それが、【豪華な「おまけ」付きの美味しくないお菓子】。

【おまけは無いけど美味しいお菓子】は、きっと、
実直な職人タイプの仕事ってことになるのかな。

++++++++++++++++++++

仕事で「おまけ付き」が慣例化すると、
あったら嬉しいものをくれる人を探すようになり、

接待を要求したり、天下り先を用意させたり、
キックバックを要求したり、だんだん悪いことになっていきます。

++++++++++++++++++++

恋愛関係で
【豪華な「おまけ」付きの美味しくないお菓子】があるとしたら。

「好みでもないし気も合わないけど、貢いでくれる」とか
「生理的に受け付けないけど、皆に自慢できるステータスがある」とか

かな。

【おまけは無いけど美味しいお菓子】は、きっと、
「お金はないけど、一緒にいるととにかく楽しい」とか
「特にすごいステータスはないけど、気が合う」とか

かな。


しかしまぁ、
【そこそこの おまけで、そこそこ美味しい】
ってこともありますからねw

++++++++++++++++++++


でもね、単純に
【豪華な「おまけ」付きの美味しくないお菓子】という
逆転現象をを批判するんではなくて、
「おまけ」をもっと積極的に考えてみたら
けっこう良いんじゃないかな、と思っています。

つまり、
倫理道義に反さないのであれば、「おまけ」はどんどん付けたい。


相手が喜ぶことをいつも考える。
相手がなにで悩んでいるのか想像する。
相手がぶつかりそうなトラブルを先回りして回避する。


これってたぶん、日本的な営業の発想なんだと思うんですけど、
日本的でないビジネスの世界でも、シビアな金銭感覚とは
ちょっと違う次元で、「おまけ」はあるような気がするんです。

それでね、ずいぶん前から
「営業の達人は恋愛の達人」なんではないかと
思っているんですけど、いかが?

べつに駆け引き上手という意味ではなくて、
相手のことを思いやり、良きようにサポートするという姿勢が。

++++++++++++++++++++

冒頭で「巡り合わせ」と書いたのはそういう意味合いで、
仕事も恋愛も、ないものねだりをせず、
いま自分が巡り会っている人/仕事に精一杯の気持ちで応える、
ということが大事・・・

大事、というか、実は「それしかできない」んではないかなと
思ったりします。


色んな事情があり、どうにもできない悪循環や、
馬が合わない人、イヤなことを言う人、色々ありますが、
結局、今できることにきちんと対応し、
より良い環境/状況を願うなら、それにふさわしい自分に
なって「巡り合わせ」を呼び込むしかないんじゃないかと。

世界は無限だけど、過ごす時間は有限。
出会いの可能性は無限だけど、出会える人は有限。

自由のカオスから、ころっと飛び出た偶然を、
うまくキャッチして活かせるかどうか、という
マジシャン的な感覚や技能を持っている人だけが、
どんどん良い環境に自分を持って行けるのかなと。


だから運命も自由もない・・・


冷えた蒸気が雪の結晶になる時のように、
偶然を一瞬でカタチにする不思議な力が、
たえず作用して、世界は巡っているのかなと思うわけです。

人はその巨大な流れに逆らうことはできないけれど、
川を流されるカヌーで必死にオールを漕ぐように、
自分の好む方へ少しずつ近づいていくことはできる
のではないかな、と思います。


偶然に愛される、ということ。
チャンスをものにできる能力。意識の高さ。
強い運気。


++++++++++++++++++++


自分に「おまけ」が付いてるとしたら、どんなものか?

万人に愛される「おまけ」だろうか?
ごく限られた人に好まれる「おまけ」だろうか?


++++++++++++++++++++


自分が望む環境とは、どんなものだろうか?

そこは大勢の人が楽しく過ごせる場所だろうか?
それとも、自分だけが楽しく過ごせる場所だろうか?


++++++++++++++++++++


そんなことを考えています。








「おまけ」は、履歴書には書かれないものです。

同じ能力の営業さんなら、笑顔の良い人の方がいい。
同じ能力の経理さんなら、催促のうまい人の方がいい。
同じ能力の事務さんなら、事務所をキレイに保ってくれる方がいい。
同じ能力のデザイナーなら、人を育てられる人の方がいい。
同じ能力の職人さんなら、見えない所に気遣いのある人がいい。
同じ能力の社長さんなら、社員の人望が厚い人の方がいい。

でも、そんな「おまけ」のおかげで、次の仕事が生まれたりして
この場合の「本体」と「おまけ」の境界線は曖昧ですね。

++++++++++++++++++++

無口で愛想が悪いけど良い仕事をする人だっているわけで。

特に恋愛に関してなんて、なにが本体でなにが「おまけ」か
分かりにくいですよねw
ダメ男に惚れやすい女性はきっと「おまけ」に惹かれてるんだろうし。
色気があるとか。"母性本能"くすぐられるとか。

でも、同じ能力なら人当たりの良い営業さんの方が成績いいだろうし
社員に怖がられず会計管理をできる経理さんの方が優秀だと思うし
事務所をキレイにしてくれる事務さんの方が、会社にとって重宝だろうし
人を育てられるデザイナーの方が、会社の価値を底上げするだろうし
気遣いのある職人さんの方が、住んで嬉しい家を建ててくれそうだし
人望のない社長さんの会社は長くもたないだろうし

境界線はあって無いようなものなのかもしれません。

++++++++++++++++++++

ただ、「おまけ」は文学性とか芸術性とか、雰囲気に
通じるものでもあるのか?って気がしてきました。

同じ味なら雰囲気のいい店に行きたいし、
どうせなら恋人にもっとセクシーであって欲しいし、

なんの話をしてるのか混乱してきましたが^^;;;;;

また話が長くなりそうなので続きはまたいずれ。

++++++++++++++++++++

自分に対しては、能力と「おまけ」の充実を。
人に対しては、その人の全体を想像し、その人と過ごす未来を
「見る目」を養う必要がありそうです。

++++++++++++++++++++

最近、求人のことを調べていたんですが、

●グラフィックデザイナーという職種で

○印刷技術を分かってる人だと尚良し
○コミュニケーション能力の高い人だと尚良し
○前向きに提案できる人だと尚良し
○独自のセンスを持ちつつ、柔軟に対応できる人であって欲しい

△webデザインもできる人だと嬉しい
△コーディングできる人だと嬉しい
△webシステムも分かる人だと嬉しい
△マーケティングも分かる人だと嬉しい

・文章も書ける人だったらいいな
・イラストも描ける人だったらいいな
・写真も撮れる人だったらいいな
・企画提案力のある人だったらいいな

って感じで、果てしなく「おまけ」の連鎖が続いてしまいましたw

人事の仕事って大変だな〜と思った次第。

だってそんな人、いないもんw

募集条件でこんなの書いたら、お金がいくらあっても足りない。

面接とかで、●を満たしつつ○以下が伸びそうな人を選んでいく
「人を見る目」「人を育てる力」が、人事スキルなんだろうな。

でも人を育てるのって組織全体だからなぁ。

うまく行ってる組織では、なにか奇跡が起きてるか、
誰かが無理してるんだろうなぁ。


++++++++++++++++++++

人も仕事も、ある程度、時間が経ってみないと
本当の価値は分からないってことか。そうなのか。

フタを開けてみないと、何も分からないのか。

ツンデレか。





似ている人

 
フジテレビの中村仁美アナウンサーにそっくりな人を見つけました。

友達が石坂浩二に似ている。と密かに思っています。


取引先で、大学時代の友達や先輩に似ている人に立て続けに会ったとき、
世間って狭いんだな〜と思いました(違)


僕はあまり誰かに似ているとか言われません。

電柱とか・・・トーテムポールとか・・・長いだけじゃん!

あ、ラピュタのロボには似てると よく言われますw

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


みなさんは、誰かに似ているとよく言われますか?

自分で誰かに似ていると思いますか?



【命題】 リーゼント:チョンマゲ = 一角獣:ゾウ

また書きます。 これが冗談じゃないから自分の頭を疑う。




あすとろぐらす

対応状況気になります!
夢想の日々♪
私はミツバチごっこに終始してます。
ぶんぶーん





どうも〜☆

いま考えてる過程だと、あとで あすとろさんを召還する予定w
その時はよろしくです^^w

召還呪文のカテゴリーは「雰囲気」です。予想通り?w




あすとろぐらす

色んな時期がありますからね〜★私もすっかり(頭も)ライトユーザーです。
細く長くいきましょ〜♪

雰囲気ですか、任せてくだちい/
でもチョンマゲの雰囲気って・・・汗汗




なかなか理解してもらえないのですが、
『「○○と××は、似ている」と決めつけてみる』ことで、
逆に差異が浮き彫りになり、それぞれの良さが見えてくることが多いです。
仮説はあくまでも仮説。絶えず検証され更新されるものです。







【似る】

(1)ある物が他の物と同じように見える。
 「アユに〈に〉た魚」「よく〈に〉ている人」

(2)性質・状態などに共通点を持つ。
 「性格は父親に〈に〉ている」
 「これとよく〈に〉た話を聞いたことがある」

(3)それに相応する。適合する。
 「おそろしい顔に〈に〉ずやさしい心をもっている」
 「ゆりと言へるは否と言ふに〈にる〉/万葉 1503」
 「着たるものの、人のさまに〈に〉ぬは/源氏(玉鬘)」

                三省堂「大辞林 第二版」より

++++++++++++++++++++++++++++++


人が人に似ていると言う、または言われる場合、
まず、どこが似ているのか見極める必要があります。

●顔
○表情
●背格好
●服装
▽話し方
○言葉の選び方
▽振る舞い
◎これらから醸し出される、雰囲気

といった所でしょうか。

顔の場合は、目・鼻・口などなど、パーツごとに照合すれば
どこの形がどのように似ているのか、客観的に判断することが
できると思います。

背格好・服装についても、部分ごとに取り出して照合することが
できるでしょう。

話し方は微妙なところですが、表情・言葉の選び方・振る舞いに
ついては受け手の状態や先入観などに大きく左右され、

印象に残り方も違います。

●が客観的に判断できるもの、
▽は部品ごとに取り出すことができるものの、
 人によって見るポイントが異なるところ
○は受け手の状態によって大きく印象が異なるもの


部品ごとに取り出すことが出来ないものについては、
人によって見るポイント・印象の深さ・過去の経験との比較によって
唯一無二の印象が生まれてくるので、比べてどうこうできるものでは
ありませんね。

◎の雰囲気についてもそうで、しかもその雰囲気を醸し出している
のが何なのか、すぐには分からないことも多くあるように思います。


++++++++++++++++++++++++++++++


さて、比べても意味がないものは心にしまって下さい。

僕は話をしたいので、話ができる話題を選びます。


よく知らない人の印象をまとめようとする時に、
何かに似ていると考える。
これは僕のよくやることですが、その何かとは、何か?

よく知らない人のことですから、外見的なことしか分かりません。

服装・髪型・化粧・ヒゲ・メガネなど。

そして、実はこれらはちっとも普遍的なものなどではなく、
時代の流行に大きく左右されるものです。

例えば平安時代。

烏帽子をかぶっていない男は人前には出られませんでした。
それでは人間ではない、社会的存在ではないという扱いです。
今なら全裸でウロウロしているようなものだったとか。

そして武士の時代を経て、江戸時代まで。

男は基本的に、みんなチョンマゲでした。

貧しかったり手入れができなくて髪が生えてきていたとしても、
基本的には月代(さかやき)をそり落として、
「チョンマゲであろうとしていた」はずです。
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sakayaki.html

なぜ頭頂部を剃るのか?それは一説には、
カブトをかぶる時にズレたり蒸れたりしないようにしていた、と
言われています。あのころの戦闘と言えば、城から鎧甲を身につけて
何十kmも歩き、風呂もなく、水も乏しかったでしょうから、
手入れのしやすい頭にしていた、武家の習慣の名残というわけです。
http://web1.aaacafe.ne.jp/~yataro/sakayaki.htm

さて月代そのものはチョンマゲではありません。

なぜ、後ろにたばねた髪を、頭頂部に垂らさなければならないのか?

これは現在、「自然さ」をテーマにした髪型をしている僕らの
目から見れば、非常に奇異なことのように思えます。

その理由は分かりません。

ここでは、
「その時代に当然とされていたものが、
 あとの時代から見ると奇異に見える」
ということにスポットを当てたいと思います。

例えばリーゼント。

男のことばかり書くのは僕が男だからというのと、
女性の服装や髪型などは複雑すぎて書ききれないからです。
まぁ知識もないんですが。

リーゼント。 あれ、なんなんでしょうか。

たぶん、力強さ・男らしさみたいなものを表現しているんでしょう。

大きく太く・前上方に向かって硬く突き上げているほど、良い。

あからさまに男根的です。 稚拙と言ってもいいほどに。

そういう意味では、リーゼントのツッパリなんかよりも数十倍
男らしいはずの武士の髪型なんて、前上方がなんとも無防備です。

リーゼントが男らしいとしたら、チョンマゲは女らしいのか?

これは謎です。

現代でこのチョンマゲに当たるものがあるとしたら、何か?

僕はモヒカンではないかと思っています。
それも頭頂部〜後頭部にかけてボリュームのあるやつ。
そう思って僕は数年前からモヒカンベースなんですが。

男根的に一点突破で突き進むより豊かさが求められる時代ですからw


では動物で、男根的なものと言えば、サイなど角をもったもの。
その最たるものとして、想像上の生物ですが、ユニコーンがいます。
一方チョンマゲにそっくりな頭をしているのが、ゾウ。

ユニコーン・・・なんて卑猥なんだ。

しかも「馬」は男性的な性愛を隠喩するものでもあり、
結婚しない女性が最後に行き着くのが愛馬との蜜月と言いますから、
それに角が生えているとくりゃあ、お客さん。大変ですよ。


++++++++++++++++++++++++++++++


さてチョンマゲとユニコーンに相似性を見いだしているのは
僕の妄想なのでこのへんにしておいて、
ここで言いたいのは、現在、「似ている」と思ったとしても
それが外見上の特徴を指しているのであれば、あてにはならない。
ということです。当たり前といえば当たり前ですが。

目が似ている? 整形だとしたら?
服装が似ている? では同じ服を着たらどうなの?


「似ている」ということを本当に考えるなら、
上で○として書いた、表情・話し方・振る舞い、といったものから、
にじみ出てくる人格を問題にしたいように思います。

人格が似ているとしたら、仲良くなれるか、犬猿でしょう。
心のありようは様々でも、人が望む幸せに大事なことは多くないです
から、似た考え方の人の、良いところも悪いところも分かってしまう
という可能性が高くなってくるからです。

人格が似ているということは、
性格の素質が似ているか、生きてきた環境が似ているか、
いずれにせよ全人類をマッピングしてみた時に、
非常に近い地点にいることは確かなように思われます。

それぞれの道を懸命に歩き、ここで出会った。

というわけです。


そして人格が似ている者同士は、初対面でも、きっと分かる。

通じるものがある。

目を見れば分かる。

なぜか?


にじみ出ている「雰囲気」が、その人を語るからだと思います。


顔のパーツも、服装も、振る舞いも、声の感じも、言葉のチョイスも
興味のあるジャンルも、仕事も違うのに、なぜか、【似ている】。

では「雰囲気」とは何なのか?

きっと生ものでしょう。
会って話さなければ本当には伝わらないものでしょう。
しかし死んでからも名残を残すものでしょう。

ここが彼が10年過ごした部屋です。とても彼らしいですね。
今にもドアを開けて彼が帰って来そうな気がします。
「ただいま。あれ、どうしたの?」

つまり「雰囲気」が「その人らしさ」なのか?

作ろうとした自分らしさや、どこかで買ってきた私らしさではなく、
にじみ出てくる雰囲気。これをもっと大事にしたいものです。


すべての細かい振る舞いが、あなたの過去の経験を集約する。

ひとつひとつの言葉が、現在のあなたを象徴する。

あなたの「雰囲気」は、あなたの世界観。あなたの人生。

どんな世界に生きてきたのか、
どんな世界に生きていたいのかを、いやでも露呈してしまいます。


雰囲気について研究している人がいるので、話を聞いてみましょう。

あすとろさ〜ん!  お 待 た せ ★







あすとろぐらす

はっ!新しいタイプのバトンですね(*_*)
大したこと書けませんがちょっと考えてあとで書きます。







よろしく^^







あすとろぐらす

さてさて、遅くなりました〜。
雰囲気について・・・
私も全然結論出てないんですが、「自称・雰囲気評論家」として、
かしおさんのコメントについて思ったことをつらつらと書かせて頂きますね。

かしおさんのおっしゃるように、人と人が「似てる」という時、
見た目の色・形というのは最重要視されないと思います。見た目に共通点があっても、
全然印象が違ったり、実際に深く知ってみたらまったく違うタイプに分類されることもありますね。
しかし、雰囲気について考えた時、外見も要素の一つとしては
外せない部分であることも確かです。
ただ、雰囲気は、外見だけで決まるものではなく、外見は必須要素ではあっても、
それだけでは雰囲気を決定できないものということになります。

私がよく「あの人とあの人似てるよね?」と言うと、
「全然そう思わない」と言われることがよくあります。
これは、私のなかで「雰囲気」を判断して言っている場合が多いためなのですが、
ここで私の言う「雰囲気」とは、かしおさんが挙げられた外見や話し方、
言葉の選び方を含め、キャラクターや、その人をとりまくすべてを総合的に認識したもの
にあたります。

「雰囲気」は、外見的に洋服や靴や髪型を「トータルコーディネートする」という
言葉よりもっと広い範囲で、外見とキャラクターと職業をはじめとする環境などなど・・・
その人に関するすべてのことをトータルに考えた時にできあがってくる視覚的でも感覚的でもある
「その人のイメージ」とも言えます。これをいかに魅力的にもっていくか、
私はそれを研究している一人でもあります。

「あの人がこれをやっているとひどく魅力的に見えるが、
別の人が同じことをやっていても別に魅力的に見えない」というのも、
広い意味でのトータルコーディネートにそぐわっているか否かによるものと考えます。
ある人があることをやった時、キャラクターがにじみ出て、ひどく魅力的になることがあるのです。
こういったすべての自分をとりまく事象を「何が魅力的で何が魅力的でないか」判断して
演出を完璧にすることができる人は「雰囲気マスター」と言えますが、
そんなことが完璧にできている人は、私の知る限り、いらっしゃいません。
また、雰囲気マスターになることは、「自分がいいと思うファッションやライフスタイルを貫く」
こととは違います。これは、好きなものと似合うものが違うという理論と同様です。

独自の展開で恐縮ですが、雰囲気とは結局のところ、
「似ている」ことはあっても、絶対に同じものはあり得ないということになります。
かしおさんがおっしゃっているように、「似てると決めつけてみると、
個々の違いからそれぞれの魅力に気づくことができる」というのも事実だと思います。

また、雰囲気は、その人の一部から連想されるもの一つ一つによって変化していきますし、
受け手側が何を連想したかによっても変わってきます。
ですので、雰囲気についての認識を他人と完全な一致で共有することは困難で、
感覚が似た人同士がたまに共感しあえるくらいの、曖昧なものと考えます。

ここまで曖昧なものについて考えていくと、
自分の言っていることも訳が分からないような気分になってきます。笑

そんなわけで、そろそろ逃げの態勢に・・・笑

曖昧さを追求するのは、私的には結構好きな分野です。
こういう形で文章にすることはなかなかありませんでしたが、それも文章に書くとめたくないというか、
書きとめられるものなのか分からないという部分があったからかもしれません。
私が将来、雰囲気について本を書くとしたら、その各章は文章だけにとどまらず、
絵や音楽を挟んだものになっていくでしょう。
・・かっこええー!と自画自賛して終わります。笑

駄文失礼しました〜。







かっこええ・・・さっそくのコメントありがとうございました!

なるほどなるほど・・・あすとろさんのコメントを読んで、
自分の文章や考え方の流れがいかに感覚的で恣意的か、
よく分かりました^^;

途中で「比べても意味のないものは心にしまって」とか言いながら
最後には、雰囲気という掴みどころのないものについて話すという
非常に矛盾したアプローチですねw ^^;
これは書き終えたあとすぐに気づいたのですが、放置していました。

たしかに、雰囲気を形作るものには外見的な特徴も関わりがあり
ます。それが決定的な要素とはならないとしても、その人を
知っている度合いが浅いほど、外見的要素は大きな影響を与える
ものですね。これは言葉が足りませんでした。

丁寧に補足して下さってありがとうございます!


「雰囲気は外見・職業・環境などその人にまつわる全てを
 総合的に表すものだ」というまとめ、非常に納得します。

またそれをただ観察・研究するだけでなく、自分自身の行動に
反映させたり、人が自分の雰囲気をどうコントロールしようと
しているかまで含めて理解しようとしている姿勢に、

第三者になってしまいがちな「研究者」という立場に留まらず、
自分の認識や疑問にリアリティーをもって生きて行こうとする潔い
姿勢のようなものを感じ、とても快く思いました。


そもそも流行の話や服装の時代性について書き始めたのは、
現在「似ている」という印象を与えたとしても、
服装や髪型や化粧の与える印象、

また、僕はあまり好きな言葉ではありませんが
身につけている洋服のメーカー・ブランドや、職業や趣味、
化粧の仕方によって、いわゆる”キャラ設定”のようなことをして、
自分に対しても周囲に対しても、人格や行動範囲のカテゴライズ
をするような態度が一般化しているように思える現代日本において

外見、特に一時の流行的傾向によって印象が生み出されている
場合には、注意しなければならないのではないかと感じたことが
きっかけです。


僕の文章ではそのへんをバッサリ割愛してしまっていました。
それと、すでに書いていたユニコーン・チョンマゲ・雰囲気の
話を早く繋げて体裁を整えようと、文章の運びも急ぎ過ぎで
飛躍・妄走し、よたよたとどこへ行くのか定まりません。

自分で結論の出ていないことを、考えながら書いているので、
当然といえば当然ではありますが、反省点ではありました。








実は、もともと僕自身は
「『似ている』ということはどういうことだろう」
「『似ていると感じるということ』はどういうことなんだろう」
という、認知的な部分に興味をもってこの話題を書きました。

あすとろさんが、雰囲気によって、同じ振る舞いをしても
魅力が発揮されたり何も生み出さなかったりするという、
人の人格的な完成について書かれたのは、非常に刺激的です。

それはつまり、すでに あすとろさんが書かれているように、
いくら好きでも自分には似合わないものがある、逆に
いくら嫌ってもどうしようもなく似合うものがあるということで、
上で書いた”キャラ”のカテゴライズとは真逆のベクトルを向いた、
人格の「制御不能性」の存在を示しているように思います。

それってつまりは無意識であったり、ある程度の経験や
年を取ることで受け容れていく自らの出自や由来、先祖や
家族や周囲の人々から少しずつ渡され受け継いでいる何か、

若い頃はそれに違和感を感じたり、現代社会と向き合う時には
嫌悪そのものにもなってしまうこともあるような、
「自分が、どうしようもなく、
 『自分のものではない自分』でしかないこと」
言い換えれば、
「自分は、自分のものではない」
という、近代以降の個人の自我/アイデンティティーの前提条件を
丸ごと覆してしまう力の萌芽を孕んでいるような気がします。

これは、小さな穴から無理矢理に宇宙を覗くような僕の思考方法
の癖、ただの誇大妄想かもしれませんがw

しかしそこ(アイデンティティーの崩壊)に大きな不安を感じる、
また崩壊の予感を感じるからこそ、これほど多くの人が
ステレオタイプなライフスタイルを選択し、自らを当てはめ、
(または別の視点から見れば、自分らしい自由な人生と書かれた
 実はごく限定された可能性しか示されていないメニューの
 中から料理を選ぶことを自ら望み)
人生を「消費」の対象物とすることで(つまり極端に言えば自分自身をも商品と化すことで)人格が崩壊する前に人格を自ら手放す
ことを望み、

またその消費の需要に、マスな市場が、消費しやすい様々な
ライフスタイルや流行を当てがうことで、消費社会と人々の
日々の生活が一見うまく噛み合い、回転しているように見えて
いるのかもしれませんl。

いや違うな・・・
ステレオタイプにはまることを望むのはなにも現代に限った
人間の志向ではないですね。

もともと民族や家系の中での「親」「子」「首長」などといった
ロールモデルを演じることで自らの属する社会の安定と発展に
寄与し、それによって自分自身と自分が守るべき家族を守る
という基本的なスタイルが人間にはあったはずですから、

「ステレオタイプにはまる」という点だけを責めるのであれば、
それは現代に始まったことではなく、つまり問題ですらない。

現代の場合、その「ステレオタイプにはまる」ことの目的が
「社会の維持・発展」ではなく「個人の幸福」であるかのように
吹聴されていることで、
【ステレオタイプ = ロールモデル = 役割 = 個性の消失】

【(エゴイスティックな)個人の幸福 = 個人の能力の発揮 = 個性の伸長】
という矛盾するはずのものを求めるベクトルがどこかで
無理に繋ぎ合わされ、統合することができずに、社会の水面下で
激突しているのかもしれません。

つまり構造が歪んで不協和音を発しているのは、
「社会」と「エゴ」なのか?
あれ、これって当たり前か・・・









しかしどのみち「そんな気がする」というだけの、
なんの論拠もない僕の感覚論ですから、危険を承知で続けますw


僕は以前から「キャラ」「ネタ」という言葉の新しい使い方、
つまりは自分で自分の"キャラクター"を"設定"したり、
誰かの"キャラクター"を周囲の人々で"限定"したり、
自分や他人の行動を「ネタ」と称して、一過性の話題のために
捧げることなど、そういったもろもろの、人間の人格を貶める
ような思考にむかむかするほど苛立っていたんですが、

その理由がなんとなく分かってきたような気がします。

それはヤケクソの自由、堅い殻をまとった自由、パッケ−ジ化された
人格であって、扱いやすく「消費」しやすいものではありますが、
形がはっきりしていて影響力や輪郭が確かな(限定されている)
ぶんだけ、発想や行動、ひいては人間そのものの本来の自由を
矮小化していく行為なのではないかということです。

ただ、そういった殻をまとわずに「生身の自分自身で」周囲や
自分が生きている世界と渡り合っていくことは非常に難しい
ことであり、それはとても良く理解はできるのですが、
実はもともと激烈な気性の持ち主である僕はw^^:

そういった稚拙なコミュニケーションを取る人々の表情にのぞく
怯えた様子に苛立ち、自分だけが置いて行かれないようにと
卑屈に周囲を見渡す弱い心に苛立ち、
怯えさせている社会に苛立ち、その社会に対して今のところ
何もできない自分に苛立っているのではないかと思います。

話がかなり脱線して、僕がふだん考えていることに引っ張り込んで
しまいましたが、うーん、

「雰囲気」について僕なりに本気で考えて行くと、
それが自我の根底にある無意識をうまく発現させてあげることで
あるならば、あすとろさんが書かれているように、現代において
自分自身の「雰囲気」を理解し、それをより魅力的に生長させて
いくことがいかに困難なことであるか、分かるような気がします。


「似ていること」

・・・・

「キャラがかぶる」とか、ホントどうでもいい。







でも、実はそんなに皆がステレオタイプを求めている
わけでもないのかな。生活は様々ですよね。

++++++++++++++++++++++++++++++

たぶんメディアの方が、
色々な面で実際の生活をカバーしきれていないんだろうな。

日常の精神面についても、仕事上の精神面についても、
食生活についても、衣服についても、経済生活についても、
社会倫理についても、哲学についても。

別に人々が昔に比べて愚かになっているとは思わないし、
世間の情報量が多すぎるんだと思います。

あまりにも膨大な情報にまみれた日常生活の中で、
生活者もメディアも目の前の何かをこなすことに必死で
大きなビジョンを持ちにくい状況が続いているような
気がします。

情報は自らの価値を保つために、
「新しい情報を知っていないと、苦しむよ」と言って
人々の気を引き、情報へと駆り立てます。
メディアもまた、情報に踊らされているのでしょうかね。


たぶん、ただ一生懸命やってるだけじゃ、ダメなんですよ。
誰にも似ていない、自分自身の人生を手に入れるためにはね。

真面目に頑張る人ほど、情報の渦に呑み込まれて
自分自身を見失ってしまう可能性があります。

++++++++++++++++++++++++++++++

そしてメディアに提示されている情報の中から、
自分のもの(服・髪型・職業・趣味)を選ぼうとすると、
何かが狂い始めるような気がします。

たぶんもっと、家族や周囲の人に相談しながら自分の
道を決めた方がいいんだろうな。

家族や地域のコミュニケーションが足りない分、
特に若い人がメディアからの影響を受けすぎているのでは
ないかと心配です。

提示されるものの中から選べば、似てるに決まってます。
そんで「大事なのはオリジナリティー」とか言うんだ。

情報を持っていることが大切なのではなく、
自分に必要な情報を見極め、それを血肉にしていくことが
大切なのではないでしょうか。

言ってること普通ですが。

子供たちのことを考えると、暗い気持ちになります。

++++++++++++++++++++++++++++++

金持ちは高価な良い食事をし、
貧乏人はジャンクフードで太って早死にする。
そんな格差社会が見えてきているからこそ、気を付けたいです。

自分を安売りしないで下さい。
どうせなら、もっと高く売って下さい。
でも本当は、売り物になんてなって欲しくはないんです。








あすとろぐらす

あ、私はゲームやってる時だけリラックスできるオトナ(大きい子供)です//笑
私もアンチ・パッケージ化です★

もはや何も気にすることなかれ、
自分を押し付けず自分のなかで自分を貫くのがイイと思います。w




うむ/







完全さ

mark_01.jpg

mark_02.jpg

mark_03.jpg

 
このたび、あるマークを作りました。

ここに込めたものはなかなか言い尽くせないのですが、
参考にしたマークを挙げておきます。

左のマークはパソコンの電源ボタンなどでお馴染みと思いますが、
実は、僕はこのマークに激しく嫉妬していますw


このマークは、1と0、オンとオフを表していると言われていますが、
僕が僕なりに考えてきたある考え方の基本構造となる形と酷似しているのです。
そのイメージを持って、このマークを再発見したときの悔しさといったら!

世界を、1と0が象徴するものに振り分けていくと、
あまりにも多くのものに適用できるような気がします。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

光/闇
秩序/混沌
意識/無意識
言葉/非言葉
シニフィアン(意味するもの)/シニフィエ(意味されるもの)
一神教/多神教
抽象/具象
形而上/形而下
上・右/下・左
独立・独裁・中央政権/集団・民主主義・地方自治
上昇/下降
直列・直進・垂直/並列・回転・水平
パンチ・槍・銃・ミサイル/ひっかき・噛みつき・丸呑み・ギロチン・網
脳・運動神経/遺伝子・脊髄・反射神経
化学・合理主義・火/呪術・魔術・カオス・水・土
純粋・殺菌・整理整頓・体系化/豊穣・百花繚乱・腐敗・解体
覚醒・開眼/眠り、瞑想
昇華的同一化・タナトス/退行的同一化・エロス
トランジスタシス/ホメオスタシス
テクネー(開発)/ポイエーシス(自生)
超越的目的のための自己犠牲/愛する他者のための自己犠牲
男性性/女性性

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


ちなみに僕のイメージでは、

前者のグループは、上方向に延びる、点または直線的な力
後者のグループは、下方向へ働く、面または曲線的な力

であり、その形が↑と○であって、これが1と0で表象されること自体が
さらなる興奮を呼びます(僕だけかな?)。 
上の項目に「有と無」も入りますね。


そして重要なことは、これらは必ずしも対立するものではないということ。
また、高度な存在であるほど、どちらとも言えない両・多義性をもつという
こと。およそ2つの異なる性質/作用が、高次元的に混然一体となって、
世界があります。その混在は世界の細部にまで及びます。


最後の項目(男性性と、女性性)は微妙なんですが、あえて入れました。
1と0がアレとアレに見えるなんて分かりきったことは言わないで下さいw
根源的なことを考えているとエロは避けて通れません・・・w

万物が性的な比喩に解釈できるのではなく、
世界のもともとの性質が、人間において顕在化しているのが、性。
これでフロイト越えた?w

どんな人にも男性性と女性性があるのだから、
必ずしも女性と男性が結ばれなくたっていいわけです。


+ + + + + + + + +  左のマークの話ここまで + + + + + + + + +


中央の六芒星(ろくぼうせい)Hexagramは、別名ダビデの☆ですが、
キリスト教の非ローマ教会派の象徴でもあり、
話題のダビンチコードでは聖杯との関連性を指摘されています。
真偽のほどは分かりませんが(誰にわかる?)興味深いことでした。

このマークは2つの正三角形(△と▽)によって男性性と女性性を表す
とのこと。なにがどうかは言わずもがな。

全体としては、上下左右のみならず、30度ごとに線対称に見えます。
また、60度ごとに点対称でもあります。

単純さという意味では十字架には敵いませんが、
意味が圧縮された象徴としては、ほとんど完璧と言ってもいい
のではないでしょうか。

しかし僕がすごいなと思うのは、その交差している部分の処理。
重なる線の、一方が他方の上に重なっているようにデザインされていて、
これにより、図象の「完全さ」を損ないながらも(本当は線対称ではない)
上下という空間の概念を導入することで次元を2から3へ上げています。
歪みを含んでいるので、もしかしたらもっと高次元かもしれません。


+ + + + + + + + +  中央のマークの話ここまで + + + + + + + + +


「完全さを損なう」ということについて、
六芒星のデザイナーが何を考えていたのかは分かりませんが、
さらにその傾向が強く出ているのが右のマークです。

これは陰陽を表していますが、
もとになったのは紀元前6世紀ごろに書かれた「書経」において、
六気(陰陽風雨陽明)と五行(水火木金土または春夏秋冬土用)の
考え方をもとにして、エネルギーの循環を象徴しているそうです。
難しくてわかんねw

上の考え方に援用させてもらうなら、およそ2つの異なるエネルギーが、
絶えず動き回って世界を成り立たせている図と見ることができます。

六芒星は2次元から3次元への移行を成功させましたが、
陰陽は「動き」という時間の概念を導入して4次元への移行に成功して
います。もちろん実際に動くわけではありませんが、象徴として。

デザイン的には180度の点対称のみで、六芒星に劣るかもしれませんが、
次元が増えるということは世界が倍かそれ以上に膨らむことですから、
優劣つけがたいですね。すごいレベルの話ですがw
そして振り返ってみれば六芒星も回転するように見えますね。

日本の家紋も美しいですが、歴史ある象徴に注がれた抽象化能力は
偉大です。

僕がデザインしたマークがこれらの偉大な意匠に比肩するとは思って
いませんが、現段階の僕の抽象化能力で、あるだけの頭はひねりました。

しかし数字の魔力は恐ろしいもので、五行だけでなく、八卦、六道、
三位一体など数字を組み込んだ思想は枚挙に暇がありません。
0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,12,13,24,48,36,90,99,108,180,360,
それに素数・・・目立つ数字だけでもこれだけあります。
数学はエロティックですね。

上で書いた1と0の話では、「2項」によって世界を解釈してみただけ
ですから、数字の数だけ世界観がある、と言っても過言ではないの
かもしれません。


思想から宗教や生活様式・文化が生まれ、
中国系なら易や風水みたいなものを通して日常生活にも関係があります。
日本では神道・仏教の影響も大きいですね。
興味は尽きることがありません。

「何をしても飽きることなんてないよ」と言ったのは誰だったかな。
僕らはすぐに飽きたとか古いとか言ってしまいますが、
飽きるのは、努力が足りないからかもしれません。
あるいは、努力に値する対象を選べなかっただけかもしれません。


+ + + + + + + + +  マークの話ここまで + + + + + + + + +


「完全さを損なう」ことについては、日本文化には独特の感性があります。

正しいことをズバッと率直に公明正大に表現することを、浅ましいと考え、
みなまで言わず、神社仏閣・城も家屋も像も左右非対称に作り、
影を大事にします。

そもそも、なぜか日本人の感性にヒットするらしい
「五・七・五」「五・七・五・七・七」のリズムですが、
そこに含まれる数を合計すると17、31と、いずれも奇数です。
これは俳句や短歌がもともと「連歌」と言われる、多くの人が歌を詠み
しり取りのように読み繋げていく遊びの1パートであったころの名残りで、
つまりは次に詠まれる歌のために奇数にされているんだそうです。

偶数と偶数では具合が悪かったんですかね。誰にも分からないことですが。
感覚的には、それぞれバランスの悪い凸と凹は、安定した□と□よりも、
組み合わさる相手を求める力は強いような気がします。
気のせいかまたエロティックな話になってますが。


自分だけで完結させず、他者との関係の中に完成を委ねる。
これが日本文化の感性であり、陰翳礼賛、侘び寂びに通じる、謙虚さです。

日本精神の基本は「察しと思いやり」と言われますが、
その土台を為す「甘え」も、他者との関係を基盤にすえた者同士に通じるもの。

正しいことを大きな声で言うのはなんだか、むず痒い。
ダビデの星は、日本人の感性では作られなかった図象かもしれません。
僕はわりと傲慢なので、完全さを体現しようとする姿勢も好きなんですが。


国際社会で不可解に思われている部分もありますが、
「完全さを損なう/遠慮する」日本のこういう謙虚さは美徳だと思います。


+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


ただ、傲慢であろうと謙虚であろうと、人間は世界には及びません。

完全さは「世界」の側にあります。

人間において発揮されている脳の能力(ダジャレかよ)は10%ほどと言います。

宇宙に存在する物質(あるいは波)のうち、
人間に認識・検出できるものは4%ほどらしいと言われています。
ダークマターと呼ばれる残りの96%は、あるらしいと分かっているだけ。

極海に浮かぶ氷山も、水面から顔を出しているのは全体の10%ほど。


前述した1と0の振り分けで言えば、
アニミズムはどちらにも収まりませんが、精霊の世界と歴史は広く深い。
無性生物・菌糸類もまたカテゴライズされずに偉大に存在しています。
(キノコがなければ、現存する生物のほとんどは
 地球に出現できなかったと言われています。)

二項分類を止揚する巨大な次元が存在するようなのです。見えませんが。


認識されない部分を甘く見ない、
言葉にならない部分を甘く見ない、
語らない人を甘く見ない、
無意識を甘く見ない、
自分以外の人を甘く見ない、
人間以外の存在を甘く見ない、
そして同時に、自分自身を甘く見ない、

流れによって個はあり、個によって流れもまたあります。
鶏が先で、卵が先で、
鶏でもあり卵でもあるような何かを僕は夢想します。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

さて、前置きが長くなりましたが、
みなさんは、完全なもの、完璧だと思うものがありますか?
どのようなものに完全さを感じますか?

日常のレベルでいいです^^

好きなミュージシャンの完璧な演奏とか、好きな建物の完璧な角度とか。






でも日本人なら(日本的・仏教的な精神をもっている人なら)
本当は誰もが分かっていることだよね。
いつも言うことだけど、僕が話すのは当たり前なことばかりだよ。
当たり前に思えることを、これでもかと ほじくり返しているんだ。

どんなに言葉を尽くしても、どんなに心を砕いても、
どんなに感覚を研ぎ澄ましても、世界はまだ半分だ。

存在するものの限界があり、生きているものの限界があり、
哺乳類としての限界があり、人間としての限界があり、
現代人としての限界があり、日本人としての限界があり、
男としての限界があり、27歳としての限界があり、
経験的な未熟さがあるよ。

でも限界はすなわち可能性だからね。
短所が視点を変えれば長所になるように。

もっと単純に、もっと素直に、
ポテンシャルを引き出すことができれば、
ありのままの姿で十分ラディカルだ。

肩の力を抜いてリラックスすれば、体は水に浮くことができる。
強い風なら、グライダーはもっと高く飛ぶことができる。

僕が愛しているのは世界なんだなと思うよ。
皆のいる世界だよ。

真夜中に書いてるけど、まったく冷静にそう思う。


この日記は、皆さんに向けて開かれています(短歌のように)。
どうぞお気軽にコメントして下さい。
そしてアンケートに答えてね☆




歌える歌は1つだけ。

ですが、

「自分らしさ」なんて考えたことがなくっても
家族や友人を愛し、子供を育て静かに死んでいった人々のほうが、
偉業を成し遂げた歴史上の個人よりも偉大だ、とすら思います。

社会的存在としての人間にとっては、
社会に大きな影響を与えた人物は偉大でしょうが、
生物としての人間にとっては、子孫を残すことこそが偉大。

だから、地球に感謝し敬意を払うように、男である僕は
すべての女性を尊敬しています。

ちっぽけな「自分」なんてものにしがみついて、
何もできずにいる人には何も言いません。
個別の苦悩に観念的な一般論は役に立たないから・・・

しかし意義のある生を求めるあまり、虚しい人生/生命を捨てる、
という選択肢もまたあります。

それに、
「自分」なんてどうでも良くなってしまうほど心を奪われるものごとと
出会い、それに取り組み、人生を捧げることに憧れる自分もいるのです。

自分を捧げることと自分を殺すことは似ていますね。


個別の問題は重大ですが、個別の問題を超える次元があるような・・・

まぁいいや、そういう意味では僕は人間じゃないですw ^^;

相手にするのは「世界」。

大丈夫。何をしたって「世界」は僕の味方だから☆ うひひ(狂


僕はエゴイストだし、弱い人間だとも思っていないので、
ともすれば強者の論理に傾きがちです。

ついて来れない/来ない人も連れて行こうとするほど傲慢じゃないし、
それほど器の大きな人間でもないんです。

でも大丈夫。どのように生きたって「世界」は あなたの味方だから。

どんな状態のどんな人だって、世界はその存在を認めてくれている。
ただそこにいるってだけで。

全てが肯定される弱肉強食の世界で、生き抜きたいなら、強くなろう☆

「自分に同情するのは下劣な人間のすることだ」
と言ったのは、誰だったかな。

しかし「世界」は、死だって肯定しています。
存在していないものだって肯定しているんだと思います。




世界を視るとき、世界もまた あなたを視ている。

恋に落ちるとき、すでに あなたは恋の一部。

彼女は世界に恋をする。世界は彼女のための恋。








自らに拠って、自ら(みずから/おのずから)在る。

それが自由自在。

世界は/真実は、常にすでに、そこに在る。

人の数だけ真実があり、存在の数だけ真実がある。

それでいい。

「それでいい」と言い切ってしまう傲慢さも、それでいい。

「それでいい」と言われることを拒む気持ちも、それでいい。




どのような言葉も、どのような認識も、世界全体を正確に捉えることが
できない以上、どのような表現にも必ず、ウソはあるはずです。

世界観・人生観は常に「仮説」なんだと思います。

感動して「人生観が変わった」と言うのは最大限の賛辞かもしれませんが
実は、変わり続け、一瞬ごとに更新されているはずなのが世界観なので、
自明と言わざるを得ません。

しかし一瞬ごとにアイデンティティーの破壊と再構築をするのは
人間の精神には負担が多すぎるので、普通はそんなことはしませんねw








どうせウソを含む表現なら、好きに表現すればいい、
どうせ万人に誠実でいられないなら、選んだ相手だけに誠実でいればいい

殺さなければ生きて行けないなら、きちんと感謝して食べればいい、

環境を破壊しなければ生きて行けないなら、
修復作用を循環させ、その余剰を分けてもらう仕組みで生きればいい、

自由な時、優位に立った時にこそ、その人の倫理が問われる気がします。




仮説は常に検証され更新されなければなりません。

一瞬ごとに、細胞が生まれ変わるように、
死にながら、生きながら、仮説は存在しています。

何かを決めつけ、盲信し、思考停止したとき、仮説は滅びます。

言い切る人に気をつけよう。

書かれた言葉は、死んだ言葉。
(しかし再び読まれることによって何度でも蘇ります)

僕が自分自身に課していることは、

「できるだけ甘えるな、甘える時には自分の甘えを自覚せよ、
 あらゆる物事に耽溺するな、褒められた時には要注意」

ということです。

超越的なことについて思考しながら、常に明晰に覚醒しています。

しかしこれは普通の精神状態ではないわけで、
僕自身、なんで狂わないのか不思議なんです(本当ですw)。

たぶん僕の精神構造の基幹部には、巨大な欺瞞システムがあって、
うまく自分を騙す(自分で気づかないほど、無意識に)ことで
人格が崩壊しないように自分を守っているのでしょう。ありがとう自分?

僕は人間でありながら、人間を超えたものになりたいのかな、
と思う時もあります。

こういうことを書くと宗教っぽいと思う人もいるかもしれませんが、
実態はむしろ逆で、エゴイズムです。

宗教にも需要と供給があり、救われたいと思っている人は
「甘えるな。自分で考えろ」と言うような人は求めていませんもんね。

そして自分で考えて世界の不条理を丸ごと受け止められるほど、
人間は強くない。

僕は人間を超えることで、教祖やら神がかったものになりたい
わけではなく、動物のようになりたいんです。明晰な退行です。




「人間でありながら」というのは、
「人間の立場であるにも関わらず」「人間の分際で」という意味ではなく

「人間であること」も全力で生きながら、なおかつ、
「人間を超えたもの」でもあるような態度、ということです。

しかし理性や文化の霧で目がくもっていなければ、こういうことは
人間は自然にできているはずなんですけれどね☆




「真の芸術においては、哲学と宗教と生活が一致する」

芸術の本質は破壊と再生です。
目に心地よいもの、心をざわつかせないものは、
真の芸術とは 言えないような気がします。

既成概念を破壊し、観念を脱臼させ、身体イメージを歪ませるもの、
奇怪な踊り。ファンクネス。

「癒し」は去勢された芸術。
魂の救いとなるようなものは、ほとんど見あたりません。

では、なぜ、ほとんど苦しみしか生まないような
魂・意識・精神・心といったようなものが、
僕らには備わっているのでしょうか?







ネコ派? イヌ派?


chibi2006_01.jpg

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mixiには約半年ぶりの登場となります、ウチの借りてきたネコです。

名前はチビ。17歳。おばあちゃん。


【左】 ゴミ箱に謝りながら寝るチビ。なにやっとるんだ。

【中央】 ツッコまれて、窓際で いじけるチビ。

【右】  うでまくら。うひひ。


このように僕はメロメロなわけですが、
実は大家さんのネコなので、飼ってるわけではないんです。

チビの気が向いた時に遊びに来る別宅のようになってます。
まぁ僕も楽しいから夜な夜なひっぱりこむわけですがw
トイレとかもあるし・・・


+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


みなさんは、ネコ好きですか、イヌ好きですか?

もしくは好きな、飼いたい、飼っていた動物を教えて下さい。







アンケートの方でyujiも書いてることですが、
ネコが好きかイヌが好きかで、本人の性格が結構わかりますよね。

イヌ好きはリーダーシップを発揮するコントロールフリーク。
部下を持ったり、人をまとめる仕事に向いている傾向があるようです。

ネコ好きは干渉されるのを嫌う自由人。Mっ気がある傾向も?
矛盾するようですが、ネコに振り回されたいのか、
自分がネコのように振る舞いたいのか、という違いですね。
イヌも同様。イヌ好きと、イヌっぽい人は全然違うから。

フリーターやニートにはネコ好きが多いみたいです。
出世できない・・・のか?w


僕はといえば、まぁSでもMでもないんですが、
ネコ好きといっても、お互い過干渉しない関係が良いという感じ。

イヌは一緒に遊びたがるでしょう。それがカワイイんだけど、
何かやりたいことがある時にはちょっと困るな。
そしていつも「何かやりたいことがある」人間なので・・・

だから人間関係でも、自立してる人と程良い距離感でいるのが快適。
強引だったり、何か言われないと動けない人とは、長く付き合えません。
仕事でも友達でもね。


あと動物的なことで言えば、イヌはやっぱり毛が固いよ!w
よだれも垂らすし・・・飼うなら賢い犬種はマストです。

ネコは顔のイメージも崇高でいいすね〜
アンケートの方でbob(E)が書いてるように、種類は少ない気がするけど。

というかイヌはやはり人間との歴史が長いので、
改良されたりして種類が増えていったんだろうな。
体のサイズやバランスや顔や耳の形・毛の色まで、
その多様性には目を見張るものがありますね。

ネコは改良しにくかったのか、言うこときかなかったのかw

ウチのエサ缶は「気まグルメ」という名前。
言い得て妙とは・・・

ものごころ

 
そろそろ世の中がクリスマスで盛り上がってきてますね。

ツリーにイルミネーションに赤×緑・・・

クリスマスだからウキウキするのか、
ウキウキするからクリスマスが来るのか分かりませんが(?)、
ともあれサンタの天下ですw


+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


このごろ読んだり聞いたりした話によると、
クリスマスはキリストの誕生日とは全く関係ないそうです。

もともとは地味な、しかし敬虔な雰囲気の祭だったようです。
ヨーロッパで新石器時代から続いてきたと言われる
「冬の祭り」-ルペルカリア祭 という、
冬至を中心とする農民の祭を土台に、
ローマ帝国がキリスト教を公認したのち(4世紀)、
12月25日を生誕日として祝うようになったとのこと。

現在のような形は1940年代のアメリカで始まったと言われています。


クリスマスの重要な主役は子供たちであり、
もともと「冬の祭り」では、仮面をつけた子供たちが
松明を掲げて家々をめぐり、贈り物をねだるという、
まるっきりハロウィンのような行事でもあったそうです。

靴下をぶら下げて、おとなしくプレゼントを待つ子供という
イメージは、どうやら現代に作られた形式のようです。


(サンタという触媒を通して)
制御されない世界の生の姿から、豊穣が人々のもとへ届けられる、
来年もまた豊かな実りを得られるように願うという意味では、
大人たちにとっても大きなプレゼントを受け取る祭りです。


+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +


ところで、子供のころにもらったプレゼントを覚えていますか?

僕は自慢ではありませんが記憶力が全然なくて、
何をもらったのか、ほとんど覚えていません。

唯一克明に覚えているのは、クリスマスの朝、
兄と2人で真っ暗な部屋の中でプレゼントの箱を開けた光景。

四駆のラジコンをもらった時のことで、その部屋の光景が
なぜかアングル固定で、雨戸の隙間から洩れる朝日の光線までも
くっきりと記憶に刻み込まれているのですが、
それが何歳のクリスマスだったのかは覚えていません・・・笑


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クリスマスに限らず、子供の頃のことは ほとんど覚えていません。

どこに遊びに行ったとか、何を食べたとか、
何が欲しかったとか、まるっきり覚えていないので、
両親には「張り合いのない奴だな」と言われるんですが・・・

そりゃ、喜ばせようと思って遊園地やらキャンプやらに
連れて行っても、覚えてないんじゃ甲斐もないですよねw
ポケーッとした子供だったんだな・・・


いい年になった今でも、記憶力には全く自信がないのですが、
子供のころの記憶となると、何も言うことはありません・・・

ときどき、生まれた時のことを覚えているとか、
喋ったり立ったりした頃のことを覚えているという人がいますが、
そういう人の記憶ってどんな感じなんでしょう。

僕の最初の記憶はたぶん、生まれた金沢の冬の景色で、
住んでいた団地みたいなところにあった坂を見下ろしている景色。
曇ってて、寒くて、雪はなく、コンクリートの灰色。
なんの感情もない、視覚だけの記憶です。


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日本語には「ものごころが つく」という美しい表現がありますが、
僕が ものごころ ついたのは一体いつだったんだろう。
誰にも分からない永遠の謎です。

記憶に関する映画なども最近ありますが、
限りあるスペースにどんどんメモ用紙を貼っていくような
貧弱な記憶力とともに漠然とした世界を生きる26歳。
私こと かしおまさし、今日も元気です。


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みなさんは、いつ頃 ものごころ がつきましたか?

最初の記憶はどんなものですか?




テーブルマナー


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年の瀬も迫りくる今日このごろ。 皆様いかがお過ごしでしょうか。

なにかと宴席の多い季節、それほど親しくない人たちとも
食事をともにすることが多くなってきますね。

そこで気になるのが、食事するときの振る舞い。
いわゆるテーブルマナーだけでなく、話し方や食べるスピードなど、
細々したことでも気にしはじめるときりがないものです。

僕は神経質というほどでもないと思うんですが、
ぺちゃぺちゃ音をさせて食べたり、食器をカチャカチャいわせる人と
食事をすると、やはり気になってしまいます。

友達に聞いたところ、

・ポロポロこぼす人
・ステーキなどをとりあえず切り刻む人
・一口も食べてないのに香辛料などを入れちゃう人
・箸置きがあるのに使わない人
・箸は刺すものと決めちゃってる人
・「いただきます」「ごちそうさま」を言わない人

が気になるそうです。
「ごちそうさま」をいつも言うのは難しいかもしれないですけどね。

箸をめぐってはよく知られているように色々なマナーがあります。
でもあれか、おかずを連続して食べたら本当はいけないのか。
知らなかった・・・どんだけ飯くわす気だ。


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食事をする、という行為は、身も蓋もない言い方をすれば
血肉とするべく栄養を摂取しているわけで、もっとも動物的というか
本能まるだしになる時間、それは実はとてもデリケートな時間です。

食事を他人に見られたくないと思う人もいますし(食べる時に口を隠す)
逆に見られても全く構わないゲラゲラという人は、
マナー・ルール・遠慮・品位・様式が少なければ少ないほど、
自分を動物に近い存在として認めてしまっていることになります。
つまり文化的ではない。

文化とは即ち様式なので、ルールが込み入っているほど文化的
ということは、ある一面においては真実なんだと思います。

だから儀式と呼ばれるものは、しちめんどくさい程、高貴とされますね。
あるいは高貴さを演出するために、しちめんどくさく行われます。

「食えりゃいいんだ!」という人はつまり
「着れりゃいいんだ!」「住めりゃいいんだ!」という人でもある
わけで、まぁ最終的には「死ねばいいんだ!」という。


また、同席者に対しては礼儀正しくても、お店の人に対して
言葉遣いが乱暴だったり、態度が横柄な人もときどきいますね。

そういう人はたぶん、ある限定的な世界の中にいる自分しか
認識できていないのでしょう。そういう姿もまた見られているのに。


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食事の仕方は、人生に対する姿勢を象徴的に表すものかもしれません。
まぁそれを言ったらなんだってそうなんですけど。

聞いた話では、食事の好みや、食べる早さ(食べ終わるタイミング)
が似ている人同士は、肉体的にも相性がいいんだそうです。

食事が、それぞれの本能に接近する時間であることを考えれば、
なんとなく納得できる話のような気もします。


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人生に対する姿勢ということで言えば、
マナーは完璧なのになぜか食事してもつまらない人がいたり、
行儀が多少わるくても、楽しい気分にさせてくれる人もいます。

ですから、ただ型を覚えればいいというものでもないようです。

マナーのことなんて忘れてしまうくらい楽しくさせてくれる人
というのは、なにか人生の楽しみ方のツボのようなものを
直感的につかんでいる人なのかもしれませんね。

Life is MAGIC


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シュヴァンクマイエル展「GAUDIA」に行ってきました。

http://www.moma.pref.kanagawa.jp/museum/exhibitions/2003/index.html

神奈川県立近代美術館(葉山館)にて。

http://columbia.jp/dvd/titles/artanime/yan.html

このあいだ買ったDVD、映画「オテサーネク」の作者夫妻による
展覧会。過去の映画で使用されたオブジェや、その他の絵画など、
もりだくさんの内容でチェコからやって来ました。

これは見に行かねば!と思っていたところ、
会期中に妻のエヴァさんが急病で亡くなったことを知り、
わけもなく悔しいような申し訳ないような気持ちになりました。

20代のはじめに出会い、芸術的/社会的信念で強く結びついていた
夫妻であり、ファンとしてはとても悲しく、また、
これからは彼女の描いた絵が映画の中に登場しないのかと思うと、
損失の大きさに愕然とします。


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シュヴァンクマイエルの作品世界は、
中世的な魔術的事物が、現実を歪めながら、
あるいは本来の姿に戻しながら、跳梁跋扈する姿を、
そして普通の人々が神話のような類型化された境遇や関係に
飲み込まれていく様子などを描くことが多くあります。


この展覧会によせては、夫妻のこんな言葉が掲げられています。

***********************************************

「GAUDIA」(ガウディア:ラテン語で悦び・楽しみ・慰みの意)は、
意識的であれ無意識的であれ、グロテスクで滑稽であり、
風刺的、諧謔的であるような作品のことであり、
しばしばエロティックな特徴を有している。

グロテスク・遊戯・魔術という聖なる三位一体は、
現代の実用本位で功利的な文明に対立するもうひとつの世界の
窓となることを目指している。

エヴァ・シュヴァンクマイエロヴァー &
ヤン・シュヴァンクマイエル

***********************************************


おそらくイメージしやすい言葉としては「シュールリアリズム」の
手法に近く、シンプルさ、磨き上げられたスタイルとは対極にあります。

自分自身の無意識や強迫観念をむき出しにすることによって、
表面を取り繕おうとする理性や知性の霧を晴らし、それによって、
エネルギーに満ちた美しくも残酷な「世界の生の姿」を捉えようとします。

今ある現実は世界の真の姿ではなく、
本当の世界/本当の自分は、どこか感知しにくい所に
隠れている/隠されている/抑圧されているのだ、というモチーフは
芸術や心理学の分野でよく語られることではあります。


そうした認識の不確かさは、
もちろん時代的・社会的な状況の中で生み出されるものでもありますが、
もともと人間の精神構造の深いところに、そういう歪みがあるのかも
しれないという気がします。

デジャヴの存在についてはよく知られていますが、
その起こるメカニズムや理由については未解明の部分が大きくあります。

同じように、その存在を知っているからといって、
その存在の全てを理解できているわけではありません。

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みなさんが、「奇妙だ」「不思議だ」と思う瞬間はどんな時ですか?

あるいは、魔法や奇跡を感じる瞬間は?

割り箸がきれいに割れたとか、信号が連続で青だとか、
そういったことで結構です。
ただ、個人的に自分だけが感じているような独特なエピソードを
教えて頂けると嬉しいです。


沈黙は

 
横浜トリエンナーレに行ってきました。

http://www.yokohama2005.jp/jp/


2001年の第1回とはずいぶん雰囲気の違う、ざっくばらんな展示でした。
参加アーティストも減っているんじゃないかな?

いくつかの大きなホールに、ベニヤと、建築現場にある足場の骨組みとで
ブースが思い思いに組まれ、その中を歩いてめぐるので、
演劇のステージのオモテとウラを行ったり来たりしているような気分に
なりました。

良く言えばカジュアルで親しみやすい、
悪く言えば素人くさい"学園祭的な"展示風景、という印象。
これで損をしている作品も多かったように感じました。


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僕が好きだったのは、

さわひらき さんの「trail」という作品。

3×6mくらいの真っ暗なブースの中で、モノクロの映像が流れている
だけの展示なんですが、これが最高でした。

ラクダなどの動物のシルエットが、人間の日常のさまざまなシーンを
横切っていく、という内容。イメージがとても繊細できれいでした。
しんとしたイメージ。なにか大切なことを暗示しているようにも見え、
ただ単にとぼけているようにも見え……完璧…。 打ちのめされました。

会場に入ってすぐにこのブースに入ったんですが、これを見ただけで
もう来た甲斐はあったなと思えるくらい、気に入った作品でした。

「trail」は見られませんけど、公式サイトはこちら。
http://www.softkipper.com/index.htm


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それから、

ジャコブ・ゴーテル&ジャゾン・カラインドロス の
「天使探知機」が良かったです。


これもシンプルな展示で、
1つの壁面に入り口が2つある、3×3mほどのブース中央に、
直径20cmほどの太い試験管のようなものが伏せてあり、
その中に電球がある、という作品。

電球は音を感知していて、周囲が無音になった時にだけ、光る。

会話のあいまに訪れる沈黙、いわゆる「天使が通った」瞬間を検知する
というユーモアのある作品なんですが。


入り口のない、ブースの3面にはベンチが置かれています。
2つの入り口は1つの壁面にあるため、ブース内部は作品を囲んで
コの字型の通路のようになっています。

多くの人々は説明書きを読まないらしく、
ブースの中身がほとんど空っぽと言ってもいいくらい閑散としていて、
展示されているのも奇妙なガラスの器と電球が1つであることに
違和感を感じ、ときには失望や怒りをあらわしながら出ていきました。

そういう人々がたてる音が作品の成立を妨げているので、
周囲が無音になる瞬間を待っている僕は文句を言いたいのですが、
あえて声を出せば自分も、妨げる側にまわってしまうというジレンマ。
それにこのブースに入ってきた時には僕だって音をたてていたのです。


10分ほどベンチに座って待ちました。
人は途切れながらも入っては出ていき、電球はつきません。


しだいに、通り過ぎていく人々が、ハリウッド映画の観客のように、
刺激と情報量に満ちたエンターテインメント・アトラクションを
期待しているがために裏切られた表情になるのではないか、という
気がしてきました。

もしも、電球に、もともと点灯する機能がなかったとしたら・・・
これは観客の意識への批評としてはかなりクリティカルな表現に
なります。ほとんど悪意とも批判ともなりうるくらいに・・・


そんなことを考えながら、僕が電球をじっと見つめるのをやめ、
ぼんやりと床を見ていたとき、初めて電球が点灯したのです。

たしかその時、ブースには僕のほかに4人ほどの観客がいましたが、
ふと訪れたこの無音の感動的な瞬間に立ち会えたことを、
誰もすぐには認識できなかったようで、身動きひとつしませんでした。
それで電球は、次の観客が入ってくるまで、
おそらく2秒ほど(とても長く感じられましたが)点灯しました。


当たり前のようなことですが、電球は点灯機能を持っていたのです。

しかし半ば諦めかけていた僕にとっては、
たった1つの電球がついただけのことが、なにかとても貴重で繊細な
ものの一端に触れたような清々しい体験となりました。

そして、自分たちが普段どれだけ騒音を出しているか、
美術の展示を見に来る人々が、いかに説明文を読んでいないか、
しかしそういう事柄に対して声を荒げることもまた下品であるという
ような、そんななんとも言えない切ない気持ちにもなりました。

その後も15分ほどブースに滞在し、さらに2回の点灯を見ることが
できましたが、どちらも1秒たらずでした。

  沈  黙

ふだんの生活の中で、沈黙はあまり好まれません。

言葉がなくても通じるような間柄は貴重で、
そうではない関係での会話では、相手に反応し、同意したり反対したり
しながら、関係は結ばれていますよ、場は盛り上がっていますよと、
言葉をばらまきながらアピールしてしまう状況も少なくありません。

でも、多くの人は、実は1人の時間を大事にしたかったり、
言わなくても分かってもらえることを望んでいたり、
沈黙というものに大きな意味と価値を見出しているような気もします。

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みなさんは、沈黙が好きですか?

好きだとしたら、どんな種類の沈黙が好きか、教えて下さい。




錯覚(思いこみ・勘違い)

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東大駒場キャンパスの美術館で行われている展覧会に行って来ました。

「錯覚-心の働きにせまる不思議な世界」
http://tdgl.c.u-tokyo.ac.jp/~bihaku/2005.htm#illusion

ちなみに情報源は「だまし絵・錯視」コミュ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=18928


そろそろ秋の気配かなって気がしていた今日このごろ、
いきなり真夏に逆戻りしたような陽気の中、駒場野公園でおにぎりを。

テニスコートからボールがフェンスを越えて飛んできて、
それを拾った幼稚園くらいの女の子2人が「これ」と言うので
一緒にコートに返しに行ったりと、ほのぼのシーンを交えつつ。


東大駒場キャンパスって初めて行ったので、
というか駒場東大前 駅で降りたのも初めてで、変な入り口から
キャンパスに入ってしまい、学生に混じってウロウロ。
さすがに学生とは思われてないだろうな〜
でも40歳くらいの学生らしき人もいるから、異常ではないか。


ひとしきりウロウロした後、やっと美術館にたどり着きました。
展示はあまり飾り気がなく、会場も展示もこじんまりした感じ。
でも作品はかなり楽しめました。絵に近寄ったり離れたり・・・

聴覚の錯覚を起こすものもあり、
ヘッドホンをして思わず「うぉ」とか声を出してしまったりもしました。


見えないものを補ったり、見えてるはずのものを認識しなくなったり、
メカニズムが解明されていない現象がほとんどみたいなんですが、
脳の勘違いって面白いな〜。

見えてるもの、脳の自動処理、脳が勝手に作り出すビジョン、
それが人間以外の哺乳類でも同様の現象が起きているらしいこと、
色々考えさせられる展覧会でした。


他にももっと見たいという方はこちら
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=896639&page=all

+ + + + + + + + +


みなさんは、思いこみや勘違いに気づいたことってありますか?

ずっとB型だと思ってたのに実はA型でビックリ!
でも自分でB型だと思って生きてきたから混乱するとか・・・w

偏見や先入観は良くないですが、経験則がなければ生きていけないのも
事実で、思いこまないように努力するのは難しいものですよね。







【あすとろぐらす】

経験則のこと、ちょっと書きますね☆

最近思ったんですが、経験的にこうしたらうまくいったorいかなかった、という行動が、自分の中のポリシーや希望と違ったりします。
特に人間関係においてなんですが、恋愛関係も含み、自分はこうしたいけど、こうしたほうがうまくいくっていう状況が多いです。
自分はこうしたいけどっていうのは、自分のわがままや自分の都合というわけではなくて、自分だったらこうされたいとか、こうしたらハッピーっぽいのにな〜というものなんですが・・

だから私は結構、社会生活してる時はかなり客観視して生きてしまうところがあります。恋愛も、うまくいってる時もそうでない時も、頭とか経験則に基づく感覚で動いてしまいます。それを繰り返してるうちに、自分の本心(どこまでを本心ととるのかも難しいところですが)、ここでは感情とかがそれに近いのかもしれませんが、それとギャップが徐々に大きくなってきて破たんする気がします。恋愛の末期なんて理性と感覚と感情がいりまじり。いろんな自分に出会っちゃうし、何が正しいのか分からなくなってきちゃいます。

なんかすごい方向に展開しちゃいましたが^^;
このへんをうまくリセットしたり、器用に使いこなせるように成長できればいいんですけどね〜★









経験則の話、難しいですね。 奥が深い問題だと思います。

あすとろさんの言う「経験則」には、「普通はこうする」とか
「皆はこうする」とか、世の中全般的なものも含まれますかね?
あくまでも自分自身の経験に基づく法則でしょうか?

立場や役割だけの形式的な付き合いだったりすれば、ある程度は
問題ないというか、むしろ適応力があると言えると思うんですが、
恋愛など自分の心の動きに近い関係だと、辛いかもしれませんね…

ただ、いくら恋愛関係であっても意志が完全に一致することは
稀なわけで、差異は常にあると思います。
どちらが正しいとかじゃなくて、純粋に「違い」があるだけですけど。

理想主義的なことを言わせてもらえば、
その「違い」を、感情的にならずに静かに語り合える関係が、
本当に成熟した関係じゃないかな、という気がします・・・
ま、恋愛じゃなくても、それこそ文化や宗教でもそうですけどねw

だからまたちょっとエラそうになっちゃうかもしれませんが、
そういう違いとか、ちょっとした気持ち・考え・違和感などを、
そっと差し出しても関係が壊れないくらい、根底にしっかりとした
信頼があるような関係を結べれば最高ですよね。

あすとろさん自身、相手が誰であっても心が分裂しちゃう人では
ないと思うので、上のようなことを「言える関係」を育てていくのが
良いのではないでしょうか。

当たり前のことばかり書いてすみません。
でも言うのって怖いですよね。少しずつ試しながら、どうしても
ダメならその人に執着しない方が、自分が楽かもしれませんよ。


ただ僕自身もわりと八方美人的に調子がいい所があるので、
色んな人の意見に共感してるうちに矛盾がたまってきてアレー?
となることは良くあります^^; 影響されやすいしw

その場その場はできるだけ誠実でありたいと思ってるんですが…
なにしろ忘れっぽいもんで。メモしとかないとw


ところで、リセットしたり器用に使いこなせるようになる必要は
まったくないと思いますよ。苦しくなるだけです。
小出しに言える自分と相手を育てるしかないと思うのです、ハイ。

表面的付き合いの相手なら言わずに飲んで忘れてもいいんですけどw

真剣に付き合いたい相手に歪んだ自分で適応しても、それは
本当は相手も望んでいないだろうし、そんな幸せ、錯覚でしょう。
おっ上手くまとめた!?w









【あすとろぐらす】


私の言う経験則は、自分が世の中の一般則を体験してできてきたものです。なので両方かな?

違いを静かに語り合える関係って、理想的ですよね☆
大人な関係っていう感じ。確かに、文化や宗教もそうですね/
私は恋愛以外だったらそれが実践できてるかなと思いますが、
やっぱ恋愛は心に近すぎて、冷静に判断しても、心が追い付かないことがありそうですね。

ちょっとした気持ち、考え、違和感をスムーズに伝えられる信頼関係。
すごい理想ですが、こうなってくると、信頼について考え込んでしまいます。
Q.よく、相手をもっと信用すべき、とか言いますが、
信頼って、自分が信じようと思ってするものなんでしょうか?
私は、恋愛だけでなく社会生活をしているなかでも、相手と接して色々作業をしたり、相手の行動を見ているうちに、自然と「この人は信頼できそうorできなそう」っていうのができていくものなんじゃないかなと思うんです。

なんかこども相談室みたいになっきてますがw
かしおさんの考えをきかせて下さい/

話戻りますが、リセットしたり使いこなせるようにならなくていいんでしょか。
気持ち的にすくわれますが、リセットできないとどんどん苦しくなる気もします・・
歪んだ自分であつき合っていきたくないですね。
錯覚に陥らないように頑張りますw









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信頼関係は、相手との交流の中でしだいに形作られていく、というのは
僕も同じです。

「信じて」と言われて信じるのは難しいと思います。
「信じようと努力する」ことしかできませんよね。
「信じることに決める」なんてこともできますけど、それもちょっと
柔軟さに欠けて思考停止かなって気もするのですが、詳細はあとで。

信頼関係が築けたとして、この先も大丈夫だと思ったとしても、
それは過去の経験から未来を予測しているだけのことで、
それこそ経験則ですよね。良くも悪くも。

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相手のことをよく知っていて、信頼できると思っているのに
どうしても不安を感じてしまうというのは、
同じような状態/信頼関係で、ひどく裏切られた経験があるのかな、
と推測されます。まぁ、ありきたりかもしれませんがw

信頼することに臆病になっているということですが、
言い換えれば不安を感じるのは一種の防衛行動であり、
裏切りが起きた時に「やっぱりね」と言って自分を守りたい気持ちがあり
経験則は自分の人生を裏付けるものですから簡単には覆せないわけで、

変な言い方になりますが、不安という形をとって表れた
「経験則/これまでの自分」を守ろうとすることは、行き過ぎれば、
信頼関係が壊れるのをどこか期待している部分がある、とも言えるかな
と思います。

しかし実際にそうなれば、裏切られる経験則が補強されるだけで、
ますます臆病になってしまいますよね。

その悪循環を解消するのは、自分の経験則を吹き飛ばしてくれるような
圧倒的な経験しかないのではないかな、と思います。

あるいは環境を大きく変えるか、自分の考え方や行動様式を大きく
変えて、今までの経験則を自ら否定するチャレンジを試みること・・・

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

いずれにしても相手との関係の中で展開されることですから、
ハッキリとした原因が説明できないとしても、
自分がどのように(何を)感じ、どのように行動しようと考えているのか
それに関して相手にも協力を求めるのか、静かに長い目で見守ってほしい
のか、ということを相談して理解してもらう必要があると思います。

前に書いたことと少し食い違いますが、
そういう「言う努力」をすることで、信頼関係を築いていくしかない
のではないかな、と。
前に書いた順番と逆ですが、まぁ相互作用だと思うので許して下さいw

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僕について言えば、相手のことを盲目的に信じるということはないです。

もちろん親しい人と信頼関係を結べることは嬉しいし、
そうなれるよう努力もしますけど、
関係って常に揺れ動いているものだと思うので、
資格みたいに「信頼関係を取得」って感じでw、その先は
安定した信頼関係が永遠に続く、というイメージでは捉えていません。

信頼できるとしても、それをそのまま長期的に未来に期待はしていない、
というか。
むしろ僕は「現在の」お互いの関係が本当に良いものであるかを
確認する、そのためにコミニュケーションを取ることに心を砕きます。

どんな通い慣れた常連の店で、
僕の性格や味の好みを分かってくれている店だとしても、
今日の僕がどんな状態で、サッパリしたものを少し食べたいのか、
こってりしたものをお腹いっぱい食べたいのかまでは分からない、
というような感じです。
長期的には味の好みも変わってくるし。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

こういう感覚の根底にはやはり僕の人間性があり、
無常感とか諦念みたいなものを強く持っていて、
どんなものもいつか離ればなれになってしまうとか、
人と人は完全には分かり合うことはできないと思っている、
少しさみしい感性があります。

人間は愚かさ・弱さと共にあると思っているので・・・
性悪説ならぬ性"弱"説とでも言うんでしょうか。

人に対して完璧な感情を求めたり、多くを期待しないので、
期待しすぎてそれが満たされなかったために信頼を裏切られたと感じる、
ということは少ないかもしれません。

もちろん人が僕のために何かをしてくれたり考えたりしてくれるのは
とれも嬉しいですが、僕に失望したり、興味がなくなったり、
あるいは他にもっと魅力的なものを見つけて去ってしまったとしても、
それは起こりうることで仕方がないと思っている所があります。

「あなたは あなたで 一生懸命生きる。僕は僕で一生懸命生きる。
 その中で楽しい時間を一緒に過ごせたらいいね」

というのが僕の基本姿勢でしょうか。かっこつけすぎかな。
分かり合えないからこそ、通じた瞬間が輝かしいんだと思うんですが。

もちろんこういう考え方も、もしかしたら一種のずるさで、
傷つかないように自己防衛しているだけなのかもしれません。
あるいは、本気で人と関わることを恐れているとか・・・
人によっては、僕がまだ愛というものを知らないのだ、とか何とか
言うかもしれませんね。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

繰り返しになりますが、僕にとっては、
その瞬間に良い関係を持てているかどうかがとても重要で、
お互いにそういう気持ちでコミニュケーションをとる努力をしていれば
自然に長く続く関係が育っていくだろうという考えです。

そもそも「うまく行く」ことが至上の目的じゃないですからね。
気が合うからうまく行くのであって、もちろん譲り合いは必要ですが、
「うまく行く」ために本心を隠したり必要以上に我慢したりということは
本末転倒のような気がします。

もっと強い言葉で言えば、それは欺瞞と呼ばれるものに近くなるように
感じます。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

ちょっと話は飛びますが、
「墓参り」日記のところで書いたことで、結婚について。

そこでは世間一般にある「原型」のようなものが強く作用するので、
自分の本心に忠実になることよりも、自分の親兄弟や相手方との関係など
周囲が「うまく行く」ことを重視するために、
当事者が犠牲になることが起きやすいと思います。まぁこれは脱線。

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リセットしたり器用になる必要はないと書いたのは、
「うまく行く」ために本心をないがしろにするのは良くない、と
思ったからです。

好きなだけ食べて全部吐くダイエットみたいというか・・・
一見うまく行っているように見えても、本当は不自然なことだし、
それに慣れることは、心の奥の方に歪みを蓄積させていくことで、
長い目で見れば自分のためにならないと思います。

小さな事をいちいち相手にぶつけると、お互いに擦り傷やアザくらいは
できるかもしれませんが、次第にお互いのペースを合わせられるように
なっていきますよね。

「言う」瞬間は怖いかもしれませんが、心の奥底に静かに
放射線を照射し続けるような恐怖よりは、僕は良いと思います。

地震のメカニズムのように、いつか歪みが爆発したら
(それは必ず起こると僕は考えますが)、
自分と相手との関係はいったい何だったのか、
自分の人生とはいったい誰のためのものだったのか、
という絶望的な気持ちになると思われるからです。

全ては錯覚にすぎないとしても、
それを飲み込んで生きていけるほど人間は強くない、と
僕は思うわけです、ハイ。

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ちょっと補足的になりますが、ここに書いたのは
あくまでもエゴイストである僕の考え方で、
他の人や愛する人のために自分の人生を捧げることが本心、という方を
つかまえて「本当は心に歪みが〜」なんて耳元で囁くつもりはないですw

自分のエゴを超えていくような大きな目的や、
人のために自分自身を投げ出すということは勇気のいることだし、
そこに嘘がないなら本当に素晴らしいことだと思っています。

それは僕にはできない生き方だというだけのことで。


長くなりましたが、あすとろさんへの回答になってるでしょうか。





お墓参り

 
今日は祖母の七回忌のため親戚が集まりました。

普段なかなか顔を合わせない、母方の親戚一同。

いとこ達が、それぞれに成長していて面白かった。

ポッチャリしてたのに、スラッと背が伸びて男っぽくなってたり。
もう1歳半になる子供を抱いて、少しだけ"母"の顔になってたり。
社会人になって化粧が大人っぽくなってたり。

逆に叔父さん叔母さん達はずっと変わらない感じで、不思議な感覚。

まわりから見たら僕も雰囲気が変わっているんだろうなぁ。

実は半年ほど前から、墓参りをしたいなと思いつつ過ごして来て、
でも実際はなかなか時間をとれずにいたので、良い機会でした。

親戚が集まると、目鼻立ちや背格好など、
誰が誰に似てるという話が必ずと言っていいほど始まるもので、
前はそういう話題には興味が湧かなかったものだけど、
このごろは少し素直に聞けるようになりました。


+ + + + + + + + +


血縁というものは本当に不思議です。
外見だけでなく、動作やちょっとした癖なども受け継がれます。
感覚や才能といったものも受け継がれています。

自分の内面や、仕事、人間関係のパターンなどについて考える時、
自分では「単独で唯一の自分自身」のことを考えているつもりで、
実は自分という存在へと繋がる血縁に思いを馳せているのかもしれない。

誰もが、過去から未来へと何かを伝えていくパイプのようなもので、
その時間軸を無視して「単独の自分」だけを覗き込む行為には、
本当は意味がないのかもしれない。


こんなことを考えていると、
自分のエゴは少し抑えて、謙虚に自分を律したいなと思ったりします。

と同時に、かなり東洋的と思われるこういう発想は、

「自分自身に重要な意味や価値を見い出せなくても構わない」という、
奇妙な安心感を与えてくれるような気がします。


とはいえこれは僕の考え方。

念のため書いておきますが、特定の宗教団体とかとは無縁ですw

さて、もうじき、お盆になります。

みなさんはお墓参りをしますか?

自分の家族や先祖についてどんな考えをもっていますか?





墓は欲望の終着点みたいな所だと書きましたが、
僕の持論として、結婚や、子供を産み育てることとかって、
個人の自由意志でやってるようで、実は「親」「家」「家系」
みたいなものの強い影響の下にあるような気がします。

自由意志が家系に回収されるというかね。
だから予定調和の亜種みたいな逆転現象が起きたりする。
本人達が結婚したくてしたのに、親に「子供はまだ?」と言われたり。

血を受け継いでいくことに対する「あるべき原型」みたいなものが
あって、明るく健康で子供を産み育てる、といった原型のせいで
そうではない人たちは必要以上に苦しんだりもする。
不妊とか障害とかジェンダーとか。

それは周囲から押しつけられる原型だけじゃなく、
自分の中の原型にも同じように圧迫されるんだけど。


死んだら墓に入る、生きてる間は墓を守る、というのも
そんな原型のひとつではないかなと思います。

子供を産み育てるのって、実は、死後の自分の面倒を
見てもらいたい気持ちの表れである部分もあるような気がします。
結果的にはね。これも逆転現象で。

ただ、昔から「あの墓には絶対に入りたくない」と思いながら
死んでいった人って、結構いたのではないかと想像されます。
でもほとんどは強制的に「あの墓」に入れられて来たわけで。

墓に入る/入れない/入れてもらえない、ってテーマだけで
小説かけそうなくらい、そこにはドラマがあるものですよね。

このごろは海に散骨するといった方法も、
選択肢のひとつとして受け入れられてきた感じもするけど。
でも本人の希望が散骨なのに子供が「それじゃあ寂しい」とか
言ってほんの一部だけ散骨してほとんど墓に入れたり、
墓って本当に、最後のギリギリのエゴが発動しちゃう場所です。


このページの日記部分では「受け継ぐこと」をわりと肯定的に
書いたけど、それはやっぱり呪いでもあり、似たくない部分や
イヤな部分が、どうしようもなく自分に受け継がれている、
というのは苦しいですよね。

それを受け入れていく過程が、いわゆる「大人になる」という
ことなのかもしれません。




携帯電話

携帯電話が壊れました。

ソニーエリクソン機のスクロールホイールが反応しなくなったのです。

これで電話帳もメールも、余計な機能はすべて削ぎ落とした、

電源を入れて数字を押すだけの簡単ケータイに進化!

いやいや、明日さっそく買いに行かなくちゃ・・・・


+ + + + + + + + +


僕の生活において、今や携帯電話はなくてはならないものです。
もちろん人や社会との重要な接点となっているからです。

当たり前の話ですが、
携帯電話は、ネットワークを介して
他人(あるいは情報)と、僕をつなぐ「窓口」です。

窓だから、外からも中からも眺めることができます。

他人から見れば、それは僕に見えるはずですが、
こちらからは、他人でもあり、僕の分身でもある、という
不思議な存在です。

つまり携帯電話は、ネットワークに属しながら、
生活上の機器という具体的な姿で、僕に属する、という
二面性を常に持っています。

それは「他人」の入り口でもあり、「自分」の出口でもあるわけです。


誰かからメールが来るのを待ちながら、手の中でもてあそんだり、
誰かに電話をかけようと、緊張しながらボタンを押したりします。

そのうち、誰かから電話が来るあてもないのにチラチラ見たり、
誰かにメールを打つわけでもなく、ただパタパタといじくるように
なったりもします。

他人の存在を確かめること、または、自分の存在を確かめること。
これは人間の根源的な欲求であると思います。

他人でもあり、自分でもある、携帯電話をもてあそぶこと。
これは、その根源的な欲求が露見している状態のように思えます。
僕には、不安で、さみしいことのボディーランゲージに見えます。

無意識に携帯をもてあそんでいるように見える人には、
「さみしい」というフキダシを付けてあげたい気分になります。

さみしいと感じること、さみしさを紛らわそうとすることは、
悪いことでも何でもありません。誰だってさみしい。

僕自身、しばしば無意味に携帯電話をいじってしまいますが、
そんな時、自分は今さみしいんだな、と感じます。


肌身離さず生活していた携帯電話が壊れてしまうと、
その小さな「さみしさ解消機能」も一緒に壊れてしまいます。

気分はおしゃぶりを取り上げられた赤ん坊、
タバコの切れたヘビースモーカー。
手持ちぶさたで、さみしい。

なにしろ、他人も、自分も、消えてしまったような錯覚さえある。

実際はそんなことはないし、
そこまで携帯電話に依存していない自分を知っている。

それでも、こういう感覚の変化はとても面白いと思います。


みなさんは、1日に何分、何時間くらい、携帯電話をさわりますか?

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