フジテレビの中村仁美アナウンサーにそっくりな人を見つけました。
友達が石坂浩二に似ている。と密かに思っています。
取引先で、大学時代の友達や先輩に似ている人に立て続けに会ったとき、
世間って狭いんだな〜と思いました(違)
僕はあまり誰かに似ているとか言われません。
電柱とか・・・トーテムポールとか・・・長いだけじゃん!
あ、ラピュタのロボには似てると よく言われますw
+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
みなさんは、誰かに似ているとよく言われますか?
自分で誰かに似ていると思いますか?


【命題】 リーゼント:チョンマゲ = 一角獣:ゾウ
また書きます。 これが冗談じゃないから自分の頭を疑う。


あすとろぐらす
対応状況気になります!
夢想の日々♪
私はミツバチごっこに終始してます。
ぶんぶーん


どうも〜☆
いま考えてる過程だと、あとで あすとろさんを召還する予定w
その時はよろしくです^^w
召還呪文のカテゴリーは「雰囲気」です。予想通り?w


あすとろぐらす
色んな時期がありますからね〜★私もすっかり(頭も)ライトユーザーです。
細く長くいきましょ〜♪

雰囲気ですか、任せてくだちい/
でもチョンマゲの雰囲気って・・・汗汗


なかなか理解してもらえないのですが、
『「○○と××は、似ている」と決めつけてみる』ことで、
逆に差異が浮き彫りになり、それぞれの良さが見えてくることが多いです。
仮説はあくまでも仮説。絶えず検証され更新されるものです。


【似る】
(1)ある物が他の物と同じように見える。
 「アユに〈に〉た魚」「よく〈に〉ている人」
(2)性質・状態などに共通点を持つ。
 「性格は父親に〈に〉ている」
 「これとよく〈に〉た話を聞いたことがある」
(3)それに相応する。適合する。
 「おそろしい顔に〈に〉ずやさしい心をもっている」
 「ゆりと言へるは否と言ふに〈にる〉/万葉 1503」
 「着たるものの、人のさまに〈に〉ぬは/源氏(玉鬘)」
                三省堂「大辞林 第二版」より
++++++++++++++++++++++++++++++
人が人に似ていると言う、または言われる場合、
まず、どこが似ているのか見極める必要があります。
●顔
○表情
●背格好
●服装
▽話し方
○言葉の選び方
▽振る舞い
◎これらから醸し出される、雰囲気
といった所でしょうか。
顔の場合は、目・鼻・口などなど、パーツごとに照合すれば
どこの形がどのように似ているのか、客観的に判断することが
できると思います。
背格好・服装についても、部分ごとに取り出して照合することが
できるでしょう。
話し方は微妙なところですが、表情・言葉の選び方・振る舞いに
ついては受け手の状態や先入観などに大きく左右され、
印象に残り方も違います。
●が客観的に判断できるもの、
▽は部品ごとに取り出すことができるものの、
 人によって見るポイントが異なるところ
○は受け手の状態によって大きく印象が異なるもの
部品ごとに取り出すことが出来ないものについては、
人によって見るポイント・印象の深さ・過去の経験との比較によって
唯一無二の印象が生まれてくるので、比べてどうこうできるものでは
ありませんね。
◎の雰囲気についてもそうで、しかもその雰囲気を醸し出している
のが何なのか、すぐには分からないことも多くあるように思います。
++++++++++++++++++++++++++++++
さて、比べても意味がないものは心にしまって下さい。
僕は話をしたいので、話ができる話題を選びます。
よく知らない人の印象をまとめようとする時に、
何かに似ていると考える。
これは僕のよくやることですが、その何かとは、何か?
よく知らない人のことですから、外見的なことしか分かりません。
服装・髪型・化粧・ヒゲ・メガネなど。
そして、実はこれらはちっとも普遍的なものなどではなく、
時代の流行に大きく左右されるものです。
例えば平安時代。
烏帽子をかぶっていない男は人前には出られませんでした。
それでは人間ではない、社会的存在ではないという扱いです。
今なら全裸でウロウロしているようなものだったとか。
そして武士の時代を経て、江戸時代まで。
男は基本的に、みんなチョンマゲでした。
貧しかったり手入れができなくて髪が生えてきていたとしても、
基本的には月代(さかやき)をそり落として、
「チョンマゲであろうとしていた」はずです。

http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sakayaki.html

なぜ頭頂部を剃るのか?それは一説には、
カブトをかぶる時にズレたり蒸れたりしないようにしていた、と
言われています。あのころの戦闘と言えば、城から鎧甲を身につけて
何十kmも歩き、風呂もなく、水も乏しかったでしょうから、
手入れのしやすい頭にしていた、武家の習慣の名残というわけです。

http://web1.aaacafe.ne.jp/~yataro/sakayaki.htm

さて月代そのものはチョンマゲではありません。
なぜ、後ろにたばねた髪を、頭頂部に垂らさなければならないのか?
これは現在、「自然さ」をテーマにした髪型をしている僕らの
目から見れば、非常に奇異なことのように思えます。
その理由は分かりません。
ここでは、
「その時代に当然とされていたものが、
 あとの時代から見ると奇異に見える」
ということにスポットを当てたいと思います。
例えばリーゼント。
男のことばかり書くのは僕が男だからというのと、
女性の服装や髪型などは複雑すぎて書ききれないからです。
まぁ知識もないんですが。
リーゼント。 あれ、なんなんでしょうか。
たぶん、力強さ・男らしさみたいなものを表現しているんでしょう。
大きく太く・前上方に向かって硬く突き上げているほど、良い。
あからさまに男根的です。 稚拙と言ってもいいほどに。
そういう意味では、リーゼントのツッパリなんかよりも数十倍
男らしいはずの武士の髪型なんて、前上方がなんとも無防備です。
リーゼントが男らしいとしたら、チョンマゲは女らしいのか?
これは謎です。
現代でこのチョンマゲに当たるものがあるとしたら、何か?
僕はモヒカンではないかと思っています。
それも頭頂部〜後頭部にかけてボリュームのあるやつ。
そう思って僕は数年前からモヒカンベースなんですが。
男根的に一点突破で突き進むより豊かさが求められる時代ですからw
では動物で、男根的なものと言えば、サイなど角をもったもの。
その最たるものとして、想像上の生物ですが、ユニコーンがいます。
一方チョンマゲにそっくりな頭をしているのが、ゾウ。
ユニコーン・・・なんて卑猥なんだ。
しかも「馬」は男性的な性愛を隠喩するものでもあり、
結婚しない女性が最後に行き着くのが愛馬との蜜月と言いますから、
それに角が生えているとくりゃあ、お客さん。大変ですよ。
++++++++++++++++++++++++++++++
さてチョンマゲとユニコーンに相似性を見いだしているのは
僕の妄想なのでこのへんにしておいて、
ここで言いたいのは、現在、「似ている」と思ったとしても
それが外見上の特徴を指しているのであれば、あてにはならない。
ということです。当たり前といえば当たり前ですが。
目が似ている? 整形だとしたら?
服装が似ている? では同じ服を着たらどうなの?
「似ている」ということを本当に考えるなら、
上で○として書いた、表情・話し方・振る舞い、といったものから、
にじみ出てくる人格を問題にしたいように思います。
人格が似ているとしたら、仲良くなれるか、犬猿でしょう。
心のありようは様々でも、人が望む幸せに大事なことは多くないです
から、似た考え方の人の、良いところも悪いところも分かってしまう
という可能性が高くなってくるからです。
人格が似ているということは、
性格の素質が似ているか、生きてきた環境が似ているか、
いずれにせよ全人類をマッピングしてみた時に、
非常に近い地点にいることは確かなように思われます。
それぞれの道を懸命に歩き、ここで出会った。
というわけです。
そして人格が似ている者同士は、初対面でも、きっと分かる。
通じるものがある。
目を見れば分かる。
なぜか?
にじみ出ている「雰囲気」が、その人を語るからだと思います。
顔のパーツも、服装も、振る舞いも、声の感じも、言葉のチョイスも
興味のあるジャンルも、仕事も違うのに、なぜか、【似ている】。
では「雰囲気」とは何なのか?
きっと生ものでしょう。
会って話さなければ本当には伝わらないものでしょう。
しかし死んでからも名残を残すものでしょう。
ここが彼が10年過ごした部屋です。とても彼らしいですね。
今にもドアを開けて彼が帰って来そうな気がします。
「ただいま。あれ、どうしたの?」
つまり「雰囲気」が「その人らしさ」なのか?
作ろうとした自分らしさや、どこかで買ってきた私らしさではなく、
にじみ出てくる雰囲気。これをもっと大事にしたいものです。
すべての細かい振る舞いが、あなたの過去の経験を集約する。
ひとつひとつの言葉が、現在のあなたを象徴する。
あなたの「雰囲気」は、あなたの世界観。あなたの人生。
どんな世界に生きてきたのか、
どんな世界に生きていたいのかを、いやでも露呈してしまいます。
雰囲気について研究している人がいるので、話を聞いてみましょう。
あすとろさ〜ん!  お 待 た せ ★


あすとろぐらす
はっ!新しいタイプのバトンですね(*_*)
大したこと書けませんがちょっと考えてあとで書きます。


よろしく^^


あすとろぐらす
さてさて、遅くなりました〜。
雰囲気について・・・
私も全然結論出てないんですが、「自称・雰囲気評論家」として、
かしおさんのコメントについて思ったことをつらつらと書かせて頂きますね。

かしおさんのおっしゃるように、人と人が「似てる」という時、
見た目の色・形というのは最重要視されないと思います。見た目に共通点があっても、
全然印象が違ったり、実際に深く知ってみたらまったく違うタイプに分類されることもありますね。
しかし、雰囲気について考えた時、外見も要素の一つとしては
外せない部分であることも確かです。
ただ、雰囲気は、外見だけで決まるものではなく、外見は必須要素ではあっても、
それだけでは雰囲気を決定できないものということになります。

私がよく「あの人とあの人似てるよね?」と言うと、
「全然そう思わない」と言われることがよくあります。
これは、私のなかで「雰囲気」を判断して言っている場合が多いためなのですが、
ここで私の言う「雰囲気」とは、かしおさんが挙げられた外見や話し方、
言葉の選び方を含め、キャラクターや、その人をとりまくすべてを総合的に認識したもの
にあたります。

「雰囲気」は、外見的に洋服や靴や髪型を「トータルコーディネートする」という
言葉よりもっと広い範囲で、外見とキャラクターと職業をはじめとする環境などなど・・・
その人に関するすべてのことをトータルに考えた時にできあがってくる視覚的でも感覚的でもある
「その人のイメージ」とも言えます。これをいかに魅力的にもっていくか、
私はそれを研究している一人でもあります。

「あの人がこれをやっているとひどく魅力的に見えるが、
別の人が同じことをやっていても別に魅力的に見えない」というのも、
広い意味でのトータルコーディネートにそぐわっているか否かによるものと考えます。
ある人があることをやった時、キャラクターがにじみ出て、ひどく魅力的になることがあるのです。
こういったすべての自分をとりまく事象を「何が魅力的で何が魅力的でないか」判断して
演出を完璧にすることができる人は「雰囲気マスター」と言えますが、
そんなことが完璧にできている人は、私の知る限り、いらっしゃいません。
また、雰囲気マスターになることは、「自分がいいと思うファッションやライフスタイルを貫く」
こととは違います。これは、好きなものと似合うものが違うという理論と同様です。

独自の展開で恐縮ですが、雰囲気とは結局のところ、
「似ている」ことはあっても、絶対に同じものはあり得ないということになります。
かしおさんがおっしゃっているように、「似てると決めつけてみると、
個々の違いからそれぞれの魅力に気づくことができる」というのも事実だと思います。

また、雰囲気は、その人の一部から連想されるもの一つ一つによって変化していきますし、
受け手側が何を連想したかによっても変わってきます。
ですので、雰囲気についての認識を他人と完全な一致で共有することは困難で、
感覚が似た人同士がたまに共感しあえるくらいの、曖昧なものと考えます。

ここまで曖昧なものについて考えていくと、
自分の言っていることも訳が分からないような気分になってきます。笑

そんなわけで、そろそろ逃げの態勢に・・・笑
曖昧さを追求するのは、私的には結構好きな分野です。
こういう形で文章にすることはなかなかありませんでしたが、それも文章に書くとめたくないというか、
書きとめられるものなのか分からないという部分があったからかもしれません。
私が将来、雰囲気について本を書くとしたら、その各章は文章だけにとどまらず、
絵や音楽を挟んだものになっていくでしょう。
・・かっこええー!と自画自賛して終わります。笑

駄文失礼しました〜。


かっこええ・・・さっそくのコメントありがとうございました!
なるほどなるほど・・・あすとろさんのコメントを読んで、
自分の文章や考え方の流れがいかに感覚的で恣意的か、
よく分かりました^^;
途中で「比べても意味のないものは心にしまって」とか言いながら
最後には、雰囲気という掴みどころのないものについて話すという
非常に矛盾したアプローチですねw ^^;
これは書き終えたあとすぐに気づいたのですが、放置していました。
たしかに、雰囲気を形作るものには外見的な特徴も関わりがあり
ます。それが決定的な要素とはならないとしても、その人を
知っている度合いが浅いほど、外見的要素は大きな影響を与える
ものですね。これは言葉が足りませんでした。
丁寧に補足して下さってありがとうございます!
「雰囲気は外見・職業・環境などその人にまつわる全てを
 総合的に表すものだ」というまとめ、非常に納得します。
またそれをただ観察・研究するだけでなく、自分自身の行動に
反映させたり、人が自分の雰囲気をどうコントロールしようと
しているかまで含めて理解しようとしている姿勢に、
第三者になってしまいがちな「研究者」という立場に留まらず、
自分の認識や疑問にリアリティーをもって生きて行こうとする潔い
姿勢のようなものを感じ、とても快く思いました。
そもそも流行の話や服装の時代性について書き始めたのは、
現在「似ている」という印象を与えたとしても、
服装や髪型や化粧の与える印象、
また、僕はあまり好きな言葉ではありませんが
身につけている洋服のメーカー・ブランドや、職業や趣味、
化粧の仕方によって、いわゆる”キャラ設定”のようなことをして、
自分に対しても周囲に対しても、人格や行動範囲のカテゴライズ
をするような態度が一般化しているように思える現代日本において
外見、特に一時の流行的傾向によって印象が生み出されている
場合には、注意しなければならないのではないかと感じたことが
きっかけです。
僕の文章ではそのへんをバッサリ割愛してしまっていました。
それと、すでに書いていたユニコーン・チョンマゲ・雰囲気の
話を早く繋げて体裁を整えようと、文章の運びも急ぎ過ぎで
飛躍・妄走し、よたよたとどこへ行くのか定まりません。
自分で結論の出ていないことを、考えながら書いているので、
当然といえば当然ではありますが、反省点ではありました。


実は、もともと僕自身は
「『似ている』ということはどういうことだろう」
「『似ていると感じるということ』はどういうことなんだろう」
という、認知的な部分に興味をもってこの話題を書きました。
あすとろさんが、雰囲気によって、同じ振る舞いをしても
魅力が発揮されたり何も生み出さなかったりするという、
人の人格的な完成について書かれたのは、非常に刺激的です。
それはつまり、すでに あすとろさんが書かれているように、
いくら好きでも自分には似合わないものがある、逆に
いくら嫌ってもどうしようもなく似合うものがあるということで、
上で書いた”キャラ”のカテゴライズとは真逆のベクトルを向いた、
人格の「制御不能性」の存在を示しているように思います。
それってつまりは無意識であったり、ある程度の経験や
年を取ることで受け容れていく自らの出自や由来、先祖や
家族や周囲の人々から少しずつ渡され受け継いでいる何か、
若い頃はそれに違和感を感じたり、現代社会と向き合う時には
嫌悪そのものにもなってしまうこともあるような、
「自分が、どうしようもなく、
 『自分のものではない自分』でしかないこと」
言い換えれば、
「自分は、自分のものではない」
という、近代以降の個人の自我/アイデンティティーの前提条件を
丸ごと覆してしまう力の萌芽を孕んでいるような気がします。
これは、小さな穴から無理矢理に宇宙を覗くような僕の思考方法
の癖、ただの誇大妄想かもしれませんがw
しかしそこ(アイデンティティーの崩壊)に大きな不安を感じる、
また崩壊の予感を感じるからこそ、これほど多くの人が
ステレオタイプなライフスタイルを選択し、自らを当てはめ、
(または別の視点から見れば、自分らしい自由な人生と書かれた
 実はごく限定された可能性しか示されていないメニューの
 中から料理を選ぶことを自ら望み)
人生を「消費」の対象物とすることで(つまり極端に言えば自分自身をも商品と化すことで)人格が崩壊する前に人格を自ら手放す
ことを望み、
またその消費の需要に、マスな市場が、消費しやすい様々な
ライフスタイルや流行を当てがうことで、消費社会と人々の
日々の生活が一見うまく噛み合い、回転しているように見えて
いるのかもしれませんl。
いや違うな・・・
ステレオタイプにはまることを望むのはなにも現代に限った
人間の志向ではないですね。
もともと民族や家系の中での「親」「子」「首長」などといった
ロールモデルを演じることで自らの属する社会の安定と発展に
寄与し、それによって自分自身と自分が守るべき家族を守る
という基本的なスタイルが人間にはあったはずですから、
「ステレオタイプにはまる」という点だけを責めるのであれば、
それは現代に始まったことではなく、つまり問題ですらない。
現代の場合、その「ステレオタイプにはまる」ことの目的が
「社会の維持・発展」ではなく「個人の幸福」であるかのように
吹聴されていることで、
【ステレオタイプ = ロールモデル = 役割 = 個性の消失】

【(エゴイスティックな)個人の幸福 = 個人の能力の発揮 = 個性の伸長】
という矛盾するはずのものを求めるベクトルがどこかで
無理に繋ぎ合わされ、統合することができずに、社会の水面下で
激突しているのかもしれません。
つまり構造が歪んで不協和音を発しているのは、
「社会」と「エゴ」なのか?
あれ、これって当たり前か・・・


しかしどのみち「そんな気がする」というだけの、
なんの論拠もない僕の感覚論ですから、危険を承知で続けますw
僕は以前から「キャラ」「ネタ」という言葉の新しい使い方、
つまりは自分で自分の”キャラクター”を”設定”したり、
誰かの”キャラクター”を周囲の人々で”限定”したり、
自分や他人の行動を「ネタ」と称して、一過性の話題のために
捧げることなど、そういったもろもろの、人間の人格を貶める
ような思考にむかむかするほど苛立っていたんですが、
その理由がなんとなく分かってきたような気がします。
それはヤケクソの自由、堅い殻をまとった自由、パッケ−ジ化された
人格であって、扱いやすく「消費」しやすいものではありますが、
形がはっきりしていて影響力や輪郭が確かな(限定されている)
ぶんだけ、発想や行動、ひいては人間そのものの本来の自由を
矮小化していく行為なのではないかということです。
ただ、そういった殻をまとわずに「生身の自分自身で」周囲や
自分が生きている世界と渡り合っていくことは非常に難しい
ことであり、それはとても良く理解はできるのですが、
実はもともと激烈な気性の持ち主である僕はw^^:
そういった稚拙なコミュニケーションを取る人々の表情にのぞく
怯えた様子に苛立ち、自分だけが置いて行かれないようにと
卑屈に周囲を見渡す弱い心に苛立ち、
怯えさせている社会に苛立ち、その社会に対して今のところ
何もできない自分に苛立っているのではないかと思います。
話がかなり脱線して、僕がふだん考えていることに引っ張り込んで
しまいましたが、うーん、
「雰囲気」について僕なりに本気で考えて行くと、
それが自我の根底にある無意識をうまく発現させてあげることで
あるならば、あすとろさんが書かれているように、現代において
自分自身の「雰囲気」を理解し、それをより魅力的に生長させて
いくことがいかに困難なことであるか、分かるような気がします。
「似ていること」
・・・・
「キャラがかぶる」とか、ホントどうでもいい。


でも、実はそんなに皆がステレオタイプを求めている
わけでもないのかな。生活は様々ですよね。
++++++++++++++++++++++++++++++
たぶんメディアの方が、
色々な面で実際の生活をカバーしきれていないんだろうな。
日常の精神面についても、仕事上の精神面についても、
食生活についても、衣服についても、経済生活についても、
社会倫理についても、哲学についても。
別に人々が昔に比べて愚かになっているとは思わないし、
世間の情報量が多すぎるんだと思います。
あまりにも膨大な情報にまみれた日常生活の中で、
生活者もメディアも目の前の何かをこなすことに必死で
大きなビジョンを持ちにくい状況が続いているような
気がします。
情報は自らの価値を保つために、
「新しい情報を知っていないと、苦しむよ」と言って
人々の気を引き、情報へと駆り立てます。
メディアもまた、情報に踊らされているのでしょうかね。
たぶん、ただ一生懸命やってるだけじゃ、ダメなんですよ。
誰にも似ていない、自分自身の人生を手に入れるためにはね。
真面目に頑張る人ほど、情報の渦に呑み込まれて
自分自身を見失ってしまう可能性があります。
++++++++++++++++++++++++++++++
そしてメディアに提示されている情報の中から、
自分のもの(服・髪型・職業・趣味)を選ぼうとすると、
何かが狂い始めるような気がします。
たぶんもっと、家族や周囲の人に相談しながら自分の
道を決めた方がいいんだろうな。
家族や地域のコミュニケーションが足りない分、
特に若い人がメディアからの影響を受けすぎているのでは
ないかと心配です。
提示されるものの中から選べば、似てるに決まってます。
そんで「大事なのはオリジナリティー」とか言うんだ。
情報を持っていることが大切なのではなく、
自分に必要な情報を見極め、それを血肉にしていくことが
大切なのではないでしょうか。
言ってること普通ですが。
子供たちのことを考えると、暗い気持ちになります。
++++++++++++++++++++++++++++++
金持ちは高価な良い食事をし、
貧乏人はジャンクフードで太って早死にする。
そんな格差社会が見えてきているからこそ、気を付けたいです。
自分を安売りしないで下さい。
どうせなら、もっと高く売って下さい。
でも本当は、売り物になんてなって欲しくはないんです。


あすとろぐらす
あ、私はゲームやってる時だけリラックスできるオトナ(大きい子供)です//笑
私もアンチ・パッケージ化です★

もはや何も気にすることなかれ、
自分を押し付けず自分のなかで自分を貫くのがイイと思います。w


うむ/

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