このたび、あるマークを作りました。

ここに込めたものはなかなか言い尽くせないのですが、
参考にしたマークを挙げておきます。

mark_01.jpgmark_02.jpgmark_03.jpg

左のマークはパソコンの電源ボタンなどでお馴染みと思いますが、
実は、僕はこのマークに激しく嫉妬していますw

このマークは、1と0、オンとオフを表していると言われていますが、
僕が僕なりに考えてきたある考え方の基本構造となる形と酷似しているのです。

そのイメージを持って、このマークを再発見したときの悔しさといったら!
世界を、1と0が象徴するものに振り分けていくと、
あまりにも多くのものに適用できるような気がします。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +
光/闇
秩序/混沌
意識/無意識
言葉/非言葉
シニフィアン(意味するもの)/シニフィエ(意味されるもの)
一神教/多神教
抽象/具象
形而上/形而下
上・右/下・左
独立・独裁・中央政権/集団・民主主義・地方自治
上昇/下降
直列・直進・垂直/並列・回転・水平
パンチ・槍・銃・ミサイル/ひっかき・噛みつき・丸呑み・ギロチン・網
脳・運動神経/遺伝子・脊髄・反射神経
化学・合理主義・火/呪術・魔術・カオス・水・土
純粋・殺菌・整理整頓・体系化/豊穣・百花繚乱・腐敗・解体
覚醒・開眼/眠り、瞑想
昇華的同一化・タナトス/退行的同一化・エロス
トランジスタシス/ホメオスタシス
テクネー(開発)/ポイエーシス(自生)
超越的目的のための自己犠牲/愛する他者のための自己犠牲
男性性/女性性

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

ちなみに僕のイメージでは、
前者のグループは、上方向に延びる、点または直線的な力
後者のグループは、下方向へ働く、面または曲線的な力
であり、その形が↑と○であって、これが1と0で表象されること自体が
さらなる興奮を呼びます(僕だけかな?)。 

上の項目に「有と無」も入りますね。

そして重要なことは、これらは必ずしも対立するものではないということ。
また、高度な存在であるほど、どちらとも言えない両・多義性をもつという
こと。およそ2つの異なる性質/作用が、高次元的に混然一体となって、
世界があります。その混在は世界の細部にまで及びます。
最後の項目(男性性と、女性性)は微妙なんですが、あえて入れました。
1と0がアレとアレに見えるなんて分かりきったことは言わないで下さいw
根源的なことを考えているとエロは避けて通れません・・・w

万物が性的な比喩に解釈できるのではなく、
世界のもともとの性質が、人間において顕在化しているのが、性。
これでフロイト越えた?w
どんな人にも男性性と女性性があるのだから、
必ずしも女性と男性が結ばれなくたっていいわけです。

+ + + + + + + + +  左のマークの話ここまで + + + + + + + + +

中央の六芒星(ろくぼうせい)Hexagramは、別名ダビデの☆ですが、
キリスト教の非ローマ教会派の象徴でもあり、
話題のダビンチコードでは聖杯との関連性を指摘されています。
真偽のほどは分かりませんが(誰にわかる?)興味深いことでした。
このマークは2つの正三角形(△と▽)によって男性性と女性性を表す
とのこと。なにがどうかは言わずもがな。

全体としては、上下左右のみならず、30度ごとに線対称に見えます。
また、60度ごとに点対称でもあります。
単純さという意味では十字架には敵いませんが、
意味が圧縮された象徴としては、ほとんど完璧と言ってもいい
のではないでしょうか。

しかし僕がすごいなと思うのは、その交差している部分の処理。
重なる線の、一方が他方の上に重なっているようにデザインされていて、
これにより、図象の「完全さ」を損ないながらも(本当は線対称ではない)
上下という空間の概念を導入することで次元を2から3へ上げています。
歪みを含んでいるので、もしかしたらもっと高次元かもしれません。

+ + + + + + + + +  中央のマークの話ここまで + + + + + + + + +

「完全さを損なう」ということについて、
六芒星のデザイナーが何を考えていたのかは分かりませんが、

さらにその傾向が強く出ているのが右のマークです。
これは陰陽を表していますが、
もとになったのは紀元前6世紀ごろに書かれた「書経」において、
六気(陰陽風雨陽明)と五行(水火木金土または春夏秋冬土用)の
考え方をもとにして、エネルギーの循環を象徴しているそうです。
難しくてわかんねw

上の考え方に援用させてもらうなら、およそ2つの異なるエネルギーが、
絶えず動き回って世界を成り立たせている図と見ることができます。
六芒星は2次元から3次元への移行を成功させましたが、
陰陽は「動き」という時間の概念を導入して4次元への移行に成功して
います。もちろん実際に動くわけではありませんが、象徴として。

デザイン的には180度の点対称のみで、六芒星に劣るかもしれませんが、
次元が増えるということは世界が倍かそれ以上に膨らむことですから、
優劣つけがたいですね。すごいレベルの話ですがw
そして振り返ってみれば六芒星も回転するように見えますね。
日本の家紋も美しいですが、歴史ある象徴に注がれた抽象化能力は偉大です。

僕がデザインしたマークがこれらの偉大な意匠に比肩するとは思って
いませんが、現段階の僕の抽象化能力で、あるだけの頭はひねりました。

しかし数字の魔力は恐ろしいもので、五行だけでなく、八卦、六道、
三位一体など数字を組み込んだ思想は枚挙に暇がありません。
0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,12,13,24,48,36,90,99,108,180,360,
それに素数・・・目立つ数字だけでもこれだけあります。
数学はエロティックですね。

上で書いた1と0の話では、「2項」によって世界を解釈してみただけ
ですから、数字の数だけ世界観がある、と言っても過言ではないの
かもしれません。

思想から宗教や生活様式・文化が生まれ、
中国系なら易や風水みたいなものを通して日常生活にも関係があります。
日本では神道・仏教の影響も大きいですね。

興味は尽きることがありません。

「何をしても飽きることなんてないよ」と言ったのは誰だったかな。
僕らはすぐに飽きたとか古いとか言ってしまいますが、
飽きるのは、努力が足りないからかもしれません。
あるいは、努力に値する対象を選べなかっただけかもしれません。

+ + + + + + + + +  マークの話ここまで + + + + + + + + +

「完全さを損なう」ことについては、日本文化には独特の感性があります。
正しいことをズバッと率直に公明正大に表現することを、浅ましいと考え、
みなまで言わず、神社仏閣・城も家屋も像も左右非対称に作り、
影を大事にします。

そもそも、なぜか日本人の感性にヒットするらしい
「五・七・五」「五・七・五・七・七」のリズムですが、
そこに含まれる数を合計すると17、31と、いずれも奇数です。

これは俳句や短歌がもともと「連歌」と言われる、多くの人が歌を詠み
しり取りのように読み繋げていく遊びの1パートであったころの名残りで、
つまりは次に詠まれる歌のために奇数にされているんだそうです。

偶数と偶数では具合が悪かったんですかね。誰にも分からないことですが。
感覚的には、それぞれバランスの悪い凸と凹は、安定した□と□よりも、
組み合わさる相手を求める力は強いような気がします。
気のせいかまたエロティックな話になってますが。

自分だけで完結させず、他者との関係の中に完成を委ねる。

これが日本文化の感性であり、陰翳礼賛、侘び寂びに通じる、謙虚さです。

日本精神の基本は「察しと思いやり」と言われますが、
その土台を為す「甘え」も、他者との関係を基盤にすえた者同士に通じるもの。
正しいことを大きな声で言うのはなんだか、むず痒い。
ダビデの星は、日本人の感性では作られなかった図象かもしれません。

僕はわりと傲慢なので、完全さを体現しようとする姿勢も好きなんですが。
国際社会で不可解に思われている部分もありますが、
「完全さを損なう/遠慮する」日本のこういう謙虚さは美徳だと思います。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

ただ、傲慢であろうと謙虚であろうと、人間は世界には及びません。

完全さは「世界」の側にあります。

人間において発揮されている脳の能力(ダジャレかよ)は10%ほどと言います。

宇宙に存在する物質(あるいは波)のうち、
人間に認識・検出できるものは4%ほどらしいと言われています。
ダークマターと呼ばれる残りの96%は、あるらしいと分かっているだけ。
極海に浮かぶ氷山も、水面から顔を出しているのは全体の10%ほど。

前述した1と0の振り分けで言えば、
アニミズムはどちらにも収まりませんが、精霊の世界と歴史は広く深い。
無性生物・菌糸類もまたカテゴライズされずに偉大に存在しています。
(キノコがなければ、現存する生物のほとんどは
 地球に出現できなかったと言われています。)

二項分類を止揚する巨大な次元が存在するようなのです。見えませんが。

認識されない部分を甘く見ない、
言葉にならない部分を甘く見ない、
語らない人を甘く見ない、
無意識を甘く見ない、
自分以外の人を甘く見ない、
人間以外の存在を甘く見ない、
そして同時に、自分自身を甘く見ない、
流れによって個はあり、個によって流れもまたあります。
鶏が先で、卵が先で、
鶏でもあり卵でもあるような何かを僕は夢想します。

+ + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + + +

さて、前置きが長くなりましたが、
みなさんは、完全なもの、完璧だと思うものがありますか?
どのようなものに完全さを感じますか?

日常のレベルでいいです^^
好きなミュージシャンの完璧な演奏とか、好きな建物の完璧な角度とか。


でも日本人なら(日本的・仏教的な精神をもっている人なら)
本当は誰もが分かっていることだよね。

いつも言うことだけど、僕が話すのは当たり前なことばかりだよ。
当たり前に思えることを、これでもかと ほじくり返しているんだ。

どんなに言葉を尽くしても、どんなに心を砕いても、
どんなに感覚を研ぎ澄ましても、世界はまだ半分だ。
存在するものの限界があり、生きているものの限界があり、
哺乳類としての限界があり、人間としての限界があり、
現代人としての限界があり、日本人としての限界があり、
男としての限界があり、27歳としての限界があり、
経験的な未熟さがあるよ。

でも限界はすなわち可能性だからね。
短所が視点を変えれば長所になるように。

もっと単純に、もっと素直に、
ポテンシャルを引き出すことができれば、
ありのままの姿で十分ラディカルだ。

肩の力を抜いてリラックスすれば、体は水に浮くことができる。
強い風なら、グライダーはもっと高く飛ぶことができる。
僕が愛しているのは世界なんだなと思うよ。

皆のいる世界だよ。
真夜中に書いてるけど、まったく冷静にそう思う。
この日記は、皆さんに向けて開かれています(短歌のように)。
どうぞお気軽にコメントして下さい。

そしてアンケートに答えてね☆


歌える歌は1つだけ。
ですが、
「自分らしさ」なんて考えたことがなくっても
家族や友人を愛し、子供を育て静かに死んでいった人々のほうが、
偉業を成し遂げた歴史上の個人よりも偉大だ、とすら思います。

社会的存在としての人間にとっては、
社会に大きな影響を与えた人物は偉大でしょうが、
生物としての人間にとっては、子孫を残すことこそが偉大。
だから、地球に感謝し敬意を払うように、男である僕は
すべての女性を尊敬しています。

ちっぽけな「自分」なんてものにしがみついて、
何もできずにいる人には何も言いません。
個別の苦悩に観念的な一般論は役に立たないから・・・
しかし意義のある生を求めるあまり、虚しい人生/生命を捨てる、
という選択肢もまたあります。

それに、
「自分」なんてどうでも良くなってしまうほど心を奪われるものごとと
出会い、それに取り組み、人生を捧げることに憧れる自分もいるのです。
自分を捧げることと自分を殺すことは似ていますね。
個別の問題は重大ですが、個別の問題を超える次元があるような・・・
まぁいいや、そういう意味では僕は人間じゃないですw ^^;

相手にするのは「世界」。
大丈夫。何をしたって「世界」は僕の味方だから☆ うひひ(狂
僕はエゴイストだし、弱い人間だとも思っていないので、
ともすれば強者の論理に傾きがちです。
ついて来れない/来ない人も連れて行こうとするほど傲慢じゃないし、
それほど器の大きな人間でもないんです。

でも大丈夫。どのように生きたって「世界」は あなたの味方だから。
どんな状態のどんな人だって、世界はその存在を認めてくれている。
ただそこにいるってだけで。

全てが肯定される弱肉強食の世界で、生き抜きたいなら、強くなろう☆
「自分に同情するのは下劣な人間のすることだ」
と言ったのは、誰だったかな。

しかし「世界」は、死だって肯定しています。
存在していないものだって肯定しているんだと思います。


世界を視るとき、世界もまた あなたを視ている。
恋に落ちるとき、すでに あなたは恋の一部。
彼女は世界に恋をする。世界は彼女のための恋。


自らに拠って、自ら(みずから/おのずから)在る。
それが自由自在。
世界は/真実は、常にすでに、そこに在る。
人の数だけ真実があり、存在の数だけ真実がある。
それでいい。
「それでいい」と言い切ってしまう傲慢さも、それでいい。
「それでいい」と言われることを拒む気持ちも、それでいい。


どのような言葉も、どのような認識も、世界全体を正確に捉えることが
できない以上、どのような表現にも必ず、ウソはあるはずです。
世界観・人生観は常に「仮説」なんだと思います。

感動して「人生観が変わった」と言うのは最大限の賛辞かもしれませんが
実は、変わり続け、一瞬ごとに更新されているはずなのが世界観なので、
自明と言わざるを得ません。

しかし一瞬ごとにアイデンティティーの破壊と再構築をするのは
人間の精神には負担が多すぎるので、普通はそんなことはしませんねw


どうせウソを含む表現なら、好きに表現すればいい、
どうせ万人に誠実でいられないなら、選んだ相手だけに誠実でいればいい
殺さなければ生きて行けないなら、きちんと感謝して食べればいい、
環境を破壊しなければ生きて行けないなら、
修復作用を循環させ、その余剰を分けてもらう仕組みで生きればいい、
自由な時、優位に立った時にこそ、その人の倫理が問われる気がします。


仮説は常に検証され更新されなければなりません。
一瞬ごとに、細胞が生まれ変わるように、
死にながら、生きながら、仮説は存在しています。

何かを決めつけ、盲信し、思考停止したとき、仮説は滅びます。
言い切る人に気をつけよう。
書かれた言葉は、死んだ言葉。
(しかし再び読まれることによって何度でも蘇ります)

僕が自分自身に課していることは、
「できるだけ甘えるな、甘える時には自分の甘えを自覚せよ、
 あらゆる物事に耽溺するな、褒められた時には要注意」
ということです。

超越的なことについて思考しながら、常に明晰に覚醒しています。
しかしこれは普通の精神状態ではないわけで、
僕自身、なんで狂わないのか不思議なんです(本当ですw)。

たぶん僕の精神構造の基幹部には、巨大な欺瞞システムがあって、
うまく自分を騙す(自分で気づかないほど、無意識に)ことで
人格が崩壊しないように自分を守っているのでしょう。ありがとう自分?
僕は人間でありながら、人間を超えたものになりたいのかな、
と思う時もあります。

こういうことを書くと宗教っぽいと思う人もいるかもしれませんが、
実態はむしろ逆で、エゴイズムです。

宗教にも需要と供給があり、救われたいと思っている人は
「甘えるな。自分で考えろ」と言うような人は求めていませんもんね。
そして自分で考えて世界の不条理を丸ごと受け止められるほど、人間は強くない。

僕は人間を超えることで、教祖やら神がかったものになりたい
わけではなく、動物のようになりたいんです。明晰な退行です。


「人間でありながら」というのは、
「人間の立場であるにも関わらず」「人間の分際で」という意味ではなく
「人間であること」も全力で生きながら、なおかつ、
「人間を超えたもの」でもあるような態度、ということです。

しかし理性や文化の霧で目がくもっていなければ、こういうことは
人間は自然にできているはずなんですけれどね☆


「真の芸術においては、哲学と宗教と生活が一致する」
芸術の本質は破壊と再生です。
目に心地よいもの、心をざわつかせないものは、
真の芸術とは 言えないような気がします。

既成概念を破壊し、観念を脱臼させ、身体イメージを歪ませるもの、
奇怪な踊り。ファンクネス。
「癒し」は去勢された芸術。
魂の救いとなるようなものは、ほとんど見あたりません。

では、なぜ、ほとんど苦しみしか生まないような
魂・意識・精神・心といったようなものが、
僕らには備わっているのでしょうか?