携帯電話が壊れました。
ソニーエリクソン機のスクロールホイールが反応しなくなったのです。
これで電話帳もメールも、余計な機能はすべて削ぎ落とした、
電源を入れて数字を押すだけの簡単ケータイに進化!
いやいや、明日さっそく買いに行かなくちゃ・・・・
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僕の生活において、今や携帯電話はなくてはならないものです。
もちろん人や社会との重要な接点となっているからです。
当たり前の話ですが、
携帯電話は、ネットワークを介して
他人(あるいは情報)と、僕をつなぐ「窓口」です。
窓だから、外からも中からも眺めることができます。
他人から見れば、それは僕に見えるはずですが、
こちらからは、他人でもあり、僕の分身でもある、という
不思議な存在です。
つまり携帯電話は、ネットワークに属しながら、
生活上の機器という具体的な姿で、僕に属する、という
二面性を常に持っています。
それは「他人」の入り口でもあり、「自分」の出口でもあるわけです。
誰かからメールが来るのを待ちながら、手の中でもてあそんだり、
誰かに電話をかけようと、緊張しながらボタンを押したりします。
そのうち、誰かから電話が来るあてもないのにチラチラ見たり、
誰かにメールを打つわけでもなく、ただパタパタといじくるように
なったりもします。
他人の存在を確かめること、または、自分の存在を確かめること。
これは人間の根源的な欲求であると思います。
他人でもあり、自分でもある、携帯電話をもてあそぶこと。
これは、その根源的な欲求が露見している状態のように思えます。
僕には、不安で、さみしいことのボディーランゲージに見えます。
無意識に携帯をもてあそんでいるように見える人には、
「さみしい」というフキダシを付けてあげたい気分になります。
さみしいと感じること、さみしさを紛らわそうとすることは、
悪いことでも何でもありません。誰だってさみしい。
僕自身、しばしば無意味に携帯電話をいじってしまいますが、
そんな時、自分は今さみしいんだな、と感じます。
肌身離さず生活していた携帯電話が壊れてしまうと、
その小さな「さみしさ解消機能」も一緒に壊れてしまいます。
気分はおしゃぶりを取り上げられた赤ん坊、
タバコの切れたヘビースモーカー。
手持ちぶさたで、さみしい。
なにしろ、他人も、自分も、消えてしまったような錯覚さえある。
実際はそんなことはないし、
そこまで携帯電話に依存していない自分を知っている。
それでも、こういう感覚の変化はとても面白いと思います。
みなさんは、1日に何分、何時間くらい、携帯電話をさわりますか?