17歳のころ、日曜日の午後、
ベッドに寝転んで、ぼんやり部屋の隅を眺めていたとき
その認識が来た。



部屋のドアが開いていて、その蝶番が見えていた。
蝶番は、ドアの一部だけど、ドアそのものではない。
同じように、ノブや、表面の板だって、
ドアの一部だけど、ドアそのものではない。
そう考えていくと、
ドアを構成している要素の全ては、ドアそのものではなく、
一時的にドアという形を取っている部品にすぎないことが分かる。
逆に考えると、ドアの蝶番が付いているこの部屋、この家、
家が建っている地面もまた、ドアの一部と言えるのかも知れない。
ドアをドアと認識している僕自身も、
ドアの一部だと言えるのかも知れない。


開いているドアは、ドアとして機能するか?
それは窓のように、
こちらからも向こうからも覗き込むことのできる
交通可能な空間なのではないだろうか。
ドアがドアとして存在している仕組みを理解できれば、
それを利用することも、無視することもできる。
ドアのない空間を回り込んで移動することさえできる。


僕を構成する肉体、
食べたもの、捨てたもの、失くしたもの、
僕を僕と同一化させる行動原理、
僕を僕だと認識する人たち、
僕をカテゴライズする様々な価値観、
僕が作った僕と、僕によって作られた僕、
まだ存在しない未来の僕自身…
僕を構成している要素の全ては、僕そのものではなく、
一時的に僕という形を取っている部品にすぎないことが分かる。


何ものからも切り離された存在というものがなく
全てが繋がっていて、また何もないとも言える。
ドアの失われた世界に、僕はいた。