なぞなぞです。
どんな大男も、
どんな小男も、
同じ歩幅で歩く道、なんだ?
答えは、階段。



アリは高所から落ちても、打撲で死ぬことはない。
プールに花瓶を投げ込んでも、衝撃で割れることはない。
空気や水には粘性があり、落下する物体の質量に対して浮力が発生する。
比重が軽ければ浮かぶし、重ければ沈む。
あるレベルを越えると「落ちる」に変わる。
世界は連続ではないのだ。
小さな妄執が集まって、怨みの場を形作るように。
小さな炭火が、あるレベルを越えると炎を生み出すように。
水が97度から98度になる時と、100度になる時の違いは?
世界には粘度の差があり、沸点があり、臨界点がある。
生命の進化も連続ではないから、突然変異が起こる。


タナトスの意味は単なる死ではなく、象徴的な死、
次の世界への旅立ちなのだと思う。
つまり、言葉や儀式によって連続性に切れ目を入れ、世界を断ち切って、
新しい何かを定義する、名前を与える力、
それがタナトスであり「父性」と呼ばれるものなのではないだろうか。


世界は、最小構成要素の繰り返しではない。
生活は、同じ毎日の繰り返しではない。
人生の道程は、坂ではない。ステップ(階段)だ。
その区切りを記録し、祝い、刻み込むために、人間には儀式が必要なのだ。
おしゃれ通信
階段の段差を無視できるほど大きな巨人だったとしても、
自分自身の成長のためには、ステップを踏んでゆく必要がある。


個人的には、女性よりも男性の方が、
人格的な成長において儀式を必要としているように思う。
歴史上の秘密結社や、成人のイニシエーションは、
男のために用意されているもののように思えるのだけれど、どうだろうか。
これは逆説的な表現で、
キリスト教徒やイスラム教徒の外国人が「日本人には信仰がない」と言った時に
彼らが想定している神様を持っていないことを恥じるのか、
「日本人はそんな強い神様がいなくても平気なくらい強い民族なのだ」と考えるか…
という発想の違いに似ている気がする。
つまり、女性は人工的なイニシエーションなどなくても
人格的に成長していけるくらい強い存在なのだ、と、少なくとも僕は考えている。
女性がやすやすと越えていくものを越えるために、
男にはイニシエーションが必要なのだ。


以下引用
ラカンの考え方によれば、
人間はその人生で二度大きな「詐術」を経験することによって「正常な大人」になります。
一度目は鏡像段階において「私ではないもの」を
「私」だと思い込むことによって「私」を基礎づけること。
二度目はエディプスにおいておのれの無力と無能を
「父」による威嚇的介入の結果として「説明」することです。
みもふたもない言い方をすれば「正常な大人」あるいは「人間」とは、
この二度の自己欺瞞をうまくやりおおせたものの別名です。

内田 樹「寝ながら学べる構造主義」より

成長のために必要とされる、象徴的な死。
消滅ではなく、新しい世界への旅立ちとしての、死。
そこには、0から1への危険なジャンプがある。


どんな聖人も、
どんな俗物も、
同じように迎える結末、なんだ?
あなたが生まれた時、みんなが笑い、あなたは泣いた。
あなたが死ぬ時、みんなが泣いて、あなたは笑うのだ。
(古代インドの格言より)
そこにあるのは、虚無ではない。