不動産屋で物件を色々見ているうちに実感したことは、
「満足する条件」をしっかり持っていないと、何も選べないということだ。



仮説的思考ができていれば、
自分が欲しいものの条件は整理されている。
「○○が××ならばOK」
このような満足する条件を持たないまま、何かを求めると
「もっと△△な方が良い」
「もう少し□□な方が良い」
と細部へのリクエストに終始し、求めるものの像も矛盾をきたしたあげく
結局、何も手に入らないという事態に陥ることすらある。
(恋人の条件を延々と並べて、誰とも付き合えない)


心の底からラーメンが食べたい人は、
どんな世界の珍味や高級食材を目の前に並べられても、
やはりラーメンを選び、満足するだろう。
それが「答え」だからだ。
自分が何を求めているか分かっていれば、
それに合致するものと出会った時、すぐに分かる。
何を食べたいのか、メニューを全部見てから決めるような態度では、
注文したあとで「やっぱり○○が食べたかったかも」などと
不毛な後悔に心を悩ませることになる。
「答え」のない人は、満足する条件がない人だから、
その定義により、
どんなに恵まれた環境にいたとしても、満足することができない。
しかしまさか、地球上の全ての人に会ってから、
愛する人を決めるわけでもあるまい。


「答え」は、結論と言われたり、着地点と言われたりもする。
日常においては、異なる主張を共存させる妥当な地点という意味もあるが、
ここで僕が書きたいのは、行為者が心に持っている
「あるべき姿」「達成すべき地点」といったものだ。
1万キロ歩くつもりで踏み出した一歩と、
なにも考えずに踏み出した一歩では、
同じ一歩でも持つ意味が変わってくる。
100点を取るためには、120点を目指す必要がある。
100点を目指していては、100点は取れないのだ。
まして目標を設定していなければ、なおさらだ。


「答え」を持っている人は、それを主体的に選んでいる人だから、
答えを実現するプロセスや、実際に答えに到達した時の状況に対して、
責任を持っている。
(「助けたからには責任があるわ」)
この先、どうするつもりか。
どういう世界に生きていたいか。
それが重要だ。
自分自身や、関係のある人、仕事や、社会に対して、
 その未来を思い描き、希望を抱けるからこそ、人は生きていける。

 「存在・価値について」)
与えられたものを、自分のものとして捉え直し、
内側に入り込んで、主体的に取り組むこと。
そこから先は、自分で選んだ道だから、言い訳できない。
(人生だって同じだろう)


自分で選んだ道だから、その過程で何かを失うとしても、
それを失うことを積極的に選択したとも言える。
思うに、選択することをせず、
ただ失うことを恐れている男ほど醜いものはない。
(去る者を引き留めようと懇願するとか/既得権益に固執するとか)


(そういう意味で、女性の方が潔い人が多いように思う。
 このごろは、女性の方が論理的だとすら考えている。
 動いているロジックがあまりに複雑で繊細なために、
 男の方からは訳の分からない、気まぐれに見えたとしても、
 その背景にはやはり条件分岐と取捨選択があるのだ。
 女性がヒステリックになるのは、男の方が非論理的である時だ)


「答え」を生み出す力は、
綿あめ器の中で、芯棒が果たす役割のような
水蒸気が冷えて、水滴に変わる時のような
もやもや、あやふやを定着させる、触媒のようなものだと思う。
「着地」からの連想か、僕の抱くイメージは、「光る足」である。
その足がまさに着地しようとする瞬間、が思い描かれる。
着地する前に、その足は存在せず、
着地した瞬間、その足は消えてしまうのだ。
まるで言葉が、対象のない状態では存在しないのに、
対象と完全に合致した状態では、必要なくなってしまうように。


存在に形を与えるという意味で、
「答え」は、世界という暗闇の中の指先である。
それが示す場所だけに、世界はあって、
あなたが触れたところに、私はいる(definition girl)。
ちょっと男性的すぎるかな。
女性だったら、この感覚をどう表現するのだろう。


ところで、「光る足」や「世界の指先」がその中にある
暗闇とは、一体なんだろう?
また、指先が触れて「答え」が凝固する前の、
固まっていない状態の世界とは、一体なんだろう?
こう考えると、主体が自らを認識するにあたり、
大いなる客体が前提されていることが分かる。


世界の動きを留めようとして、言葉で固定し、とどめを刺す。
言葉で指された世界は、定着するが、すでに死んでいる。
蝶をバラバラに分解しても、その羽ばたく美しさを解明することはできない。
 言葉をバラバラに分解しても、行間からにじみ出る味わいを発見することはできない。

「変身(in the mix)」)


主体の同一性は、
固定した形態を持たず、流動的で、同一性のない、定義される前の世界を、
行動(たとえば労働)において
結果(たとえば生産物)として定着する時に確認される。
(たとえ結果が失敗に終わったとしても、
 何かをしようとしたことが認識されればOK)


答えは、それを求めるものに与えられる。
たとえ問う者自身が捏造した答えだとしても。
そういう意味では、
答えがあるから、問いがあるとすら言える。


「信じる者は、救われる」と言うと
条件に基づく報酬、一定の責務を果たした者への対価という意味も含む。
「救われるために、信じなさい」というメッセージも込められている。
しかし実際には「救い」のプロセスは、ほんの瞬間的な出来事なのだと思う。


つまり「信じている時、救われている」のであって、
行為に対する報酬としての「救い」ではなく、
本当に何かを信じることが出来た時、その人はすでに救われているのだ。
その瞬間、本人は信じることの中に没入しているから、
救われていることに気付くのは一瞬あとのことだ。
そこで「信じて、救われた自分」を相対化したり、
信じることに迷いが生まれると、救いも同時に消えてなくなる。
幸せとは/幸せがどんなものかということを/考えずにすむことではないだろうか?
「definition happiness」)


為そうと思うな。為すと知れ。


あらかじめ答えの用意された問いではなく、
自分でも、どんな答えが出てくるか分からない問いを設定せよ。