個人的信頼は、相手の未来へ希望を託す行為を含む。
(「信じてたのに」)

しかし、社会的信頼は過去を根拠にする。
過去の行動が、その人への処遇を決定する。

(過去が立証されなければ、行政罰は下されない)

他人への対応は、経験則に基づいて行われる。
類型的な人物像には、類型化された対応が取られる。
パターンを覚えれば、処理スピードは向上する。
(「この仕事はもう覚えたから次へ行こう」)


型にはまることで、人は安心でき、お互いに信頼しやすくなる。
(文化・言語・習慣・流行・現実認識を共有すること)

特に、お互いをよく知らない間柄で、急に濃密な関係に至る場合、
外面的な特徴が重視されるのは、リスクを避ける上で当然と言える。
(結婚に際しての両家親戚、カードやローンの審査など)

しかし、自ら型にはまろうとしながら、型に合わない部分は悲鳴をあげる。
(国や宗教の対立がある、親がいない、障害がある、犯罪歴がある、借金がある…)

実際の不便さや痛み以上に、他人と比較することで増す苦痛がある。
他人と比較される視線によって増す苦痛がある。
人間は空を飛べない。関節は逆には曲がらない。

目の悪い人がメガネをかけるように、脚がなければ車椅子に乗る。
それだけのことだ…とは、なかなか思えない。


何を求めているかを他人に知られる時、弱点は最大化される。
家族を求めれば、家族を人質にとられた時に抵抗できない。

しかし遺伝子は、家庭を持ち社会を構成して、子孫を残すよう命令する。
子孫を残さないことは社会にとっては反逆と等しく扱われる。
(不妊治療を行う男女は自分を責める、同性の結婚を禁じる宗教の存在)

そこで人は、リスクを負いながらも家庭を持とうとする。


類型化された行動の中でも心を交わし、
社会にコミットしながらも自由であるためには、どうすればいいか。
自分たちが類型の中でもがいていることや、
自らも組織の負担となる無自覚な個人になりうる可能性、
自分の家族が、人質にとられるようなヤワな弱者にならぬよう、
これらに自覚的であることで、可能になると思われる。


類型を拒否する、という類型にも、はまらないよう注意が必要だ。
自由であることは、必ずしも、反社会的であることを意味しない。