キーワードは「共生」
誰かを信頼するということは、
この人ならきっとこうしてくれるはずだ、と
「走れメロス」のように
未来の相手の行動に対して希望を託すことだと思っていました。

突きつめて言えば、
相手がそのような行動を取りにくい
政治的・宗教的・感情的な状況に置かれていればいるほど、
実際にこちらが望んだ行動をしてくれた時の感動は大きいわけです。

つまり「安全に生き残る」ことではなく、
危険を賭しても、こちらの”信頼”に応えてくれた、というわけで
ある意味では心理的な心中のような関係が発生してきます。


しかし、信頼するということのより正確な意味は、
相手の行動パターンを把握するということ。
つまり「きっと〜してくれるに違いない」と願いをかけることは、
ただ希望を託しているだけであって、信頼とは違うと思うのです。

信頼とは「こういう時、この人はこうする」という
相手の信条・スタイル・人生の指針を知っているということ。

だから、信玄と謙信のようなライバル関係であったとしても、
相手を知るという意味で信頼が生まれることがある。

行動の指針を知るということは、
名前や家柄、学歴や収入を知ることよりも、はるかに深い人間理解です。

それは、相手の過去の行動から推測される未来、
経験則のバリエーションとしての関係構築です。


個人というレベルを越えれば、こんな感じ。

「経営者は労働者を数字でとらえる」
「男は女を横に並べる/女は男を縦に並べる」
「親にとって子供は、いくつになっても子供」

人間というレベルを越えれば、こんな感じ。

「植物は太陽に向かって伸びる」
「水は低きに流れる」


よく言われる「結婚すると出世できる」という話は、
「家族がいるから頑張って仕事をするだろう」ということではありますが、
さらに言うと
「家族を養っていくために、そう簡単には仕事を投げ出せないだろう」という目論見でもあり
穿った見方をすれば
「家族を人質に取られている」ことと何ら変わりないのではないでしょうか?

こんなことを考えるのは、ちょっと性格が悪いのかもしれませんが。


しかし「信頼」というものは、
実際はこのように、相手にとっての利益とリスクを把握し、
お互いに睨み合いながら、綱引きすることなのかもしれない、と思うようになってきました。

つまり
「相手はきっとこのように行動してくれる」という
希望を託す「信頼」よりも

「相手はきっとこのリスクは冒さないだろう」という
不利益から逆算して行動を読むような「信頼」のほうが

世の中には多いのではないか、ということを考えています。


ちょっと話は違うかもしれませんが
いわゆる「ネタ」に反応する笑いは、
僕には、
痙攣に似ているように思えるのです。

学校の実験でやるような、
死んだカエルの脚に電極を差し電気を流して、
ビクッ!ビクッ!と筋肉が反応する様子が連想されます。


スポーツにおいては、反射のスピードを上げることが能力を高めることにつながります。
しかし生きることにおいては、
反射のスピードを上げることが進化とは限らないと思うのです。

人間に対して「キャラクター」という言葉を当てはめることも嫌で、
(もちろん雰囲気や佇まいなど、内から発せられる形容しようのない特質を差すこともありますが)
人物の振る舞いを外部から規定するために「キャラクター」という言葉が使われる場合、
そうされることによって本人が楽になる場面もあるとはいえ、
総合的には、人間性への不遜さを感じずにはいられません。


段ボールやコンテナのように、
中に何が入っているかはともかく、どんどん積み上げていくことができる。
あるいはブラックボックスのように、
何が起きているのかは分からないけど、
投げ込む素材によって、出てくる結果が一定であるようなもの。

「ネタ」や「キャラクター」という言葉から
僕が受けるイメージはそのようなものです。

ある種の不器用な外骨格生物みたいなもので、
どんな気持ちで、どんなつもりで行動したかはお構いなしに、
発した言葉、分かりやすい外見によって「場」での振る舞いを規定されてしまうこと。
確かにその方が扱いやすく、危険も少ないのかもしれないけど、
本当に、それでいいのか?


筋肉質なら男らしい
おっぱいが出てればセクシー
ここは笑う所ですよ
これは泣ける映画ですよ
などなど・・・

記号に反応してるだけなら、カエルの脚と同じだ。

だけど僕は、自分が話をしている相手を、そんな風に思いたくはありません。


だから、コミュニケーションは定型をはずれ、
動きはわざとらしくなり、会話のテンポは脱臼する。

「おかしい」「変だ」「普通にしろ」と言われます。
べつに天の邪鬼でいるために天の邪鬼でいるわけじゃないんだけど・・・

与えられた役割を求められるままに演じることが、
相手を貶めることになるのではないかと思うだけで。

ただ、こんな格好いい理由だけでなく、
おかしな振る舞いをしてしまう僕自身の心理的な障壁というものもあるのですが・・・

つまり、根は単純なくせに、妙にひねくれている所がある。
素直になるのは、難しい。

けれど、驚くべきことに、僕が思うよりずっと
多くの人は、定型的に扱われることを望んでいるらしい。
これも適者生存の法則なのか?


優秀な経営者は決断が早いと言います。
しかしこのごろ、それは正確な表現ではないと思っています。

決断に至る思考が早いのではなく、
独自の判断基準が確立されているから、
それに照らした時、YES/NOが素早く判定できるのではないか。

あるいは「独自の基準」というもの自体も
それが成立したプロセスに自覚的にであるがために、
条件や状況によって、
どこをどう組み替えれば、より望ましい結果が得られるかが
瞬時に分かる。

仕事が早い人とは、作業スピードが速い人のことではなく、
経験を蓄積し、求められているものを予測して動ける人のことだと思います。

料理に例えると分かりやすいかなと思いますが、
手早く料理を作れる人というのは、
野菜などの生鮮食材・缶詰や冷凍などの保存食材・調味料といった素材を常に準備し、
調理器具やキッチンの整頓など、作業環境のメンテナンスもできていて、
どんな時にどんなものを作ると、自分やゲストの満足度が高いかということを知っている

そんな人であって、

決して「動作の素早い人」のことではないと思います。


14歳のころ読んだ本に、
ビジネスパーソン/経営者の常套句である「生き残りをかけて」
という言葉を「浅ましい」と切り捨てている文章があって
衝撃を受け、今でも振り切れずにいます。


うまく切り抜けること。

責められないようにすること。

リスクを回避すること。

生き残ること。

これは生物としての大原則であり、従うべき重要な法則ではあります。

しかし時として、リスクを冒すからこそ、
自分がその選択に賭ける気持ちが純粋であると表明できることも
身を危険にさらすと分かっていても行動することで、潔癖さを表現できることも
死を賭して、あるいは、家族や生活を犠牲にして取り組むことで、事の重大さを伝えることも
陶酔をはらむ危険な可能性として、存在するのだと思います。

究極的には、生きることに囚われないことこそが、自由でいることなのか?

なにがなんでも生き残ろうとすることは、果たして「浅ましい」のだろうか?

このごろ分かってきたことは、
自分自身のためだけに、周囲を犠牲にして生き残ろうとする姿勢は、浅ましいかもしれない。

ただ、誰かを、何かを「守ろうとするために」生き残ろうとする姿勢は、美しいことがある。

たとえ、行動そのものはエゴイスティックだったとしても、
家族を守ろうとする行動であれば、一面には美しいと言えることがある。


注意したいのは、生きることと、生き続けること、は違うということです。

仕事でも人間関係でもそうですが、
今ある状態を「このまま存続させよう」と思った瞬間に、なにかが壊れるような気がします。


生物は遺伝子の奴隷ではない。
人間は記号に操られているわけではない。
僕らは、もっと自由でいられるはずだ。

しかし、自由とはなんだろう。

自由を定義しようとすること・・・
なんだか、それ自体、言義矛盾に陥っているような気がします。


変数や代数のように、
不定形なら不定形なものとして扱うことは可能です。

主張しない人は、主張しない人として
ゴチャゴチャうるさい人は、ゴチャゴチャうるさい人として
そういうものだと決めて扱えば、ある種の静けさは訪れる・・・

ときに不定型、ときに固形、柔軟かと思えば頑固、というような
状況によって振る舞いを変えるような行動を取ると、
その根拠となる基本的な指針を理解してもらえず、
結果的に信頼されない、ということになります。

指針がなければ、信頼されることもない。

ポリシーなき事業は、誰からも相手にされない。
例えば、バラしか売らない花屋というものがあったら、
皆がいつも必要とする存在ではないかもしれないけれど、
少数のファンによってお店は支えられていくような気がします。

一方、あれもこれもと手を出して、ポリシーを失い、
中途半端になって没落していく例は枚挙に暇がありません。


リスクを回避して生き残ろうとすること自体は
生物として自然な行動だと思います。

しかしそこに、政治、汚職、談合、癒着といった
ワードが絡んでくると、事情は変わって来ます。

隠れて、フェアではない、不正な、生き残るための取り組みは、
堂々としていないだけでなく、卑怯で、後ろ指さされる、
器の小さい人間のすること。

問題は、フェアであるかどうか、なのか?
フェアであるということは、リスクを冒すということなのか?


機転が利いて知性的と思っていた先輩の行動が
実は、集積された処世術にすぎないと分かったときの失望といったら。


自分自身の保身をせず、
公明正大、合理的、論理的に振る舞える人は立派だと言われますが、
そもそも生物は、人間に近くなるほど非合理的な振る舞いが増えるのではないでしょうか?

微生物や昆虫の世界は、残酷なほどに論理的で合理的です。
人間は、生まれてから一人前になるまでにかかる期間が長く、
ものごころつく前の、無意識の状態があることも影響するのか、
生存を保証された状態で思うままに行動すれば、
欲望に流されて自滅に至ることさえあるという、奇妙な生物だと思います。

人は人に生まれるのではない、人になるのだ。というわけで。


人間関係というものは、
お互いにしがみつきながら宇宙空間を吹き飛ばされていくようなもので、
絶対的に安定したフィールドで展開されるものではないと思っています。
孤立している人。

ひとりで浮いてる星みたい。

だけど、宇宙は常に膨張していると言うし、
高質量の物体とともに、重力の影響範囲も常に移動し、影響を及ぼしあうこの宇宙にあって、
本当に孤立することなど可能なのだろうか?


世界は影響だらけ、関係だらけならば、
その中で動くためには、定形/不定形の両方の力を使い分ける必要があるのでしょう。

お互いに利用しあっているだけに過ぎないとしても、
絶滅しないために生命が「共生」という道を選ぶように。

自分に与えられた役割と立場を理解し、それに応えながらも、
人のことを型にはめて貶めることのないように。

誰かに過剰な希望を託すことも、不利益で囲い込んで利用することもないように。

よくよくバランスを見極めなければならないのだと考えています。


経済的に自立すれば、もっと自由でいられるか?

自分の裁量で判断できる仕事をすれば、もっと自由でいられるか?

人間関係の中で政治的に優位に立てば、もっと自由でいられるか?

孤立すれば、もっと自由でいられるか?

色々試してきたけれど、分かってきたことは、
そこには僕自身の態度保留や、現実逃避も含まれているということです。

自由でいたいとうそぶいて、決断を回避しているだけという状況もありました。
ただ、自分自身の心理的な障壁に自覚的であることができれば、
現実にコミットしながら自由であることも可能ではないかと考え始めています。

自分自身を、問題としてではなく、
答えとして、現実の関係の中に投げ出すことができれば・・・


「自由」とラベルを貼られたスタイルに呑み込まれることを拒否します。

カップラーメンを食べながら、フカヒレスープを語るような人間にもなりたくない。

自由でいたいという気持ちからも、自由でいたい。

次回予告:「答えのある人は幸いである」