どこかの田舎のおじいちゃんが、気に入っていつもかぶっている帽子がある。
なんの変哲もないキャップ帽で、全体が鮮やかなイエロー。
つばもイエローなら、後頭部のメッシュの部分もイエロー。
黄色いプラスチックってひときわ目立つよね。
おでこの所だけ白くて、そこには「Dole」と書いてある。
そう、あのフルーツジュースのDoleのロゴが・・・
おじいちゃんが何故その帽子を好きなのかは分からない。
人が聞いてもただニコニコして笑っているだけだからだ。
でも娘は、その帽子のことが好きじゃない。
なんでDoleなの?
おじいちゃんはずっと八百屋をやっていて、
何かのキャンペーンでもらったのだ。
—————————————————————————–
だいたい、娘が小学校5年生の時の授業参観にも
Doleの帽子をかぶってきて、同級生には笑われるし、恥ずかしくて仕方なかった。
好きだった男の子も笑っていて、その日は家に帰ってから泣いちゃったんだ。
娘が結婚する時だって、まだ若かったおじいちゃんは
商店街の貸し衣装屋さんでモーニングを借りてきて、
似合わねぇなと照れくさそうに笑ったあと、
最後にDoleの帽子をちょこんと頭にのせた。
花嫁はさすがに怒って、
懇願して式と披露宴の時には帽子をやめさせたんだけど、
披露宴で酔っぱらった父親は、お客様のお見送りの時に
やっぱり帽子をかぶっちゃったんだよね。
そのことを娘は今でも恥ずかしく、腹立たしく、恨めしく思っている。
自分の一生に一度の晴れ舞台が、コメディーにされてしまったのだ。
—————————————————————————–
今では母親も亡くなって、おじいちゃんは仕事もリタイア。
娘夫婦と一緒の家で、土いじりをしたりして静かに暮らしている。
散歩が趣味なんだけど、娘は、自分の父親が毎日、
派手なイエローの帽子をかぶって外を歩くのがイヤで仕方がない。
年も年だし、おかしな恰好をしてウロウロしていると
頭がボケてきたんじゃないかと近所の人に思われる。
—————————————————————————–
いつもニコニコしているおじいちゃんには友達がたくさんいる。
花の育て方をアドバイスしてくれる花屋の青年とは、
仕事をリタイアして、散歩エリアを広げた頃に知り合った。
娘は知らないんだけど、
月に1回参加するゲートボール・クラブでは、
おじいちゃんに好意をもっている老婦人がいる。
ゲートボール場の中から、待ち合わせの時間ぴったりにやって来る
おじいちゃんのイエローの帽子が見えると、それだけで嬉しくなっちゃうんだ。
イエローの花や、建物や、食器を見るたびに、おじいちゃんのことを思い出すんだって。
—————————————————————————–
僕はべつに、おしゃれに縁が深い生活をしているわけではないですが、
年をとるにつれて、おしゃれにもいくつか種類があるらしい、
ということが分かって来ました。
1つはセレブリティのおしゃれ。
華やかなファッション業界から社会に放たれる、最先端で高品質なおしゃれ。
そして、イニシエーションとしてのおしゃれ。
冠婚葬祭や、状況、立場に合わせてふさわしい恰好をするということ。
最後に、心のおしゃれ。
何の役にも立たないけど、それがあるだけで本人の心が弾むようなおしゃれ。
リボンにこだわったり。お気に入りのアイテムとかね。
—————————————————————————–
ふだん、質素な服装をしている人が、華やかな席に臨んでおめかしするのは、
身に付いていないからファッショナブルじゃないだろうけど、
人生や生活の節目を大事にするという意味で、とても素敵なことだと思います。
でも例えば、インドの女性が、日本人の男性が結婚することになって、
結婚式でサリーしか着ないということになったら、
それは非常識なのか、おしゃれ(誇り/礼儀)なのか?
そして人生の幕を閉じる時、死に装束として着る衣装はどんなものか?
ファッションとはイニシエーションに由来するものであるならば、
その根源は実は、死に装束にあるのではないでしょうか?
その服を着て、死ねるか?
—————————————————————————–
僕と同じくらいの世代の人は、
10代なかばで、阪神大震災や、地下鉄サリン事件の発生に立ち会い、
平穏な日常は、いつでも、理不尽に破壊されうるのだということを
心に刻み込まれたのではないかと思っているのですが、どうでしょうか。
意識していてもしなくても、そういう恐れとか諦念みたいなものは、
人の言動に大きな影響をおよぼしているのかもしれません・・・
—————————————————————————–
今、その服で、死ねるか?
今の人間関係で、死ねるか?
今の仕事の状態で、ここまでのキャリアで、死ねるか?
あの人とのコミュニケーション、今の状態で、死ねるか?
ありきたりですが、
刹那的だったり捨て鉢になるのではなく、
死の方から生を見ることで、
分かってくることがあるのかもしれません。
—————————————————————————–
ともあれ、30になってようやく
儀式やイニシエーションの大切さが分かって来たとは言え、
僕自身は、自分の成人式にも参加しなかったのでした。
やれやれ。