知性とは「自分は間違っているかもしれない」と考えられる態度である。
正論とは「自らの正しさを押し通す」態度である。

ならば、正論を振りかざす人間は、知性的ではないということになる。
知性は、正誤を超えた次元にある。

迷惑って「かけて、すまない。」というのが妥当な態度かなぁと思う。
もちろん、迷惑を掛けないように努力するという前提だけど、
生きてるだけで有形無形の迷惑はかける。
言い方を変えると、他の人に支えられ支え合って生きているんだからね。
「迷惑を掛けない」ことは、不信につながる可能性もある。

「私はあなたに迷惑を掛けない」ということは
「私はあなたに甘えない」ということは
「あなたが私を受け容れないと考える」ということは
「私はあなたの器量を信頼しない」ということは
「私はあなたを信頼に足る人物とみなさない」ということ?
ちょっと失礼なんじゃないか?
異論は認める。

ただ迷惑をかけるのは簡単だ。
迷惑をかけないように関係を切ってしまうことも安易だ。
迷惑を「かけて、すまない。」というジレンマを受け止めることが重要。

勝たなければならないが、勝つことを欲望してはならないという背理のうちに
立ちつくすのが老子以来の「兵の王道」なのである。
内田樹

記号化されない、両義的な存在の方が、強い。

「新しいもの好き」な人は、既知のものから、逃げているのではないか。
「旅が好き」な人は、日常の生活空間や家族から、逃げているのではないか。
逃げかどうか、という基準で見ると、逃げている人は多いのかも。
しっかり逃げて、生き延びて欲しい。

サーモグラフィーの映像で、
高温は赤やオレンジに見え、低温は青や黒で見えるくらい、
視点を変えると、世界はまったく違って見える。

記号あるところ、呪いあり。
だから言葉も、ファッションも、時間認識も、呪いになりうる。
きわどい取引を、人間はしているのだ。
記号が身体を離れて呪いとなり、個人を離れて幻想となった時、それは怪物となる。

記号の対極にあるのは、エロス。
ここで言うエロスとはセクシュアリティのことだけではなくて、
見たり触れたり食べたり語ったり、世界の細部を、時間をかけて味わうこと。
「要するに」とまとめて記号化できない、ひとつひとつ個別の存在。

医療(治す)/福祉(折り合いをつける)/教育(高める)のタイプ分けの中では、
自分は福祉タイプなのかなと思う。
病の原因を取り除いて根治するというよりは、
整体師みたいに、とりあえず快適な状態にする。だけ。

肩こりのように、生活の澱のように、それは絶えず生み出されている。

それがあるから苦しいんだけど、
取り除いてしまったら、もう同じ人ではなくなってしまう。
それを認め、鎮め、慰める。だけ。

ジレンマ、というのが正確な言葉だ。
ジレンマが僕の人間理解だ。
その呪いを鎮め、少しの間、解放することが、僕の仕事だ。

すべての祭事は、奉納であり、鎮魂である。
何かを鎮めようとする祈りである限り、芸術は死なない。

自分が戦う相手は「記号」であると思い当たったわけだけど、
記号化・象徴化能力は、人間を人間たらしめているものだから、
人間をどんどん解体していく作業になると分かった。

最高の「投資」は、市場を作ることだと思う。
自分の仲間たちが、そこで経済活動をできるような市場を作ること。

https://twitter.com/#!/casiomasasi

Similar Posts: