人それぞれとは言っても、
誰もが羨むような形となると「幸せ/成功」のバリエーションは限られる。
それに比べ「不幸/失敗」には、圧倒的に多くのバリエーションがあり得ると思う。

しかし「失敗」が
「世界のなりたちを明らかにするための試み」の結果である場合には、
むしろ愛すべきものであると言えるケースもあるのではないか。

人間は、失敗を観測することで、世界を知ろうとする。
不器用で健気な小動物(失敗)なんかが可愛く感じられるのは、
そういう側面もあるのかな。

するとブサ可愛いもの(失敗)を好む感性とか「変顔(失敗)」というのは、
不幸や不満足への適応かね。
あらかじめ失敗を自己申告しておけば、傷つくことも少ない。

失敗しようとする心

http://www.earthinus.com/2011/03/firebug-for-your-brain.html

人間が、失敗や不条理によって自分自身の限界を知り、
自らの無能を認識することで自己を形作るのであれば、
人間は本当は、自分が失敗するのを待ち、願っているのだと言えるかもしれない。

存在しない「父なるもの」が希求される理由もそれか。
つまり、存在するために、抑圧されたい。

だから、タナトス/死への欲望は「父なるもの」なのかー。
生き物は、死にたいのね。

「なぜ小説を書くかって?
小説だけが翻訳可能な形式だからですよ」
アルベール・カミュ

意識的な作家である限り、
書き手は「自分たちの棲んでいる世界のなりたちを明らかにする」ために、
排除の経験を書き続けることになります。
内田樹

小説は、だいたい失敗のバリエーション。
ラブソングは…そうでもないか。
でも、想いが成就して幸せいっぱいという作品より、
ジレンマや葛藤があるものの方が多面的で名作と言われるのではないかな。

片想い→弔い。失敗を受け入れ、丁寧に描写することで、
我執を解き放つことが、カタルシス(浄化)。

「弔い」と「片想い」は、似ている。
向こうが何かを求めている訳ではないけれど、こちらが勝手に想い慕っているという点で。
心が通じたら、涙が出ちゃう。

弔わないと化けて出る(とこちらが考える)のに対し、
片想いをやめても何も起こらないかもしれないが…
やめることのできる想いなど、恋ではない。

つまり「弔い」も「片想い」も、頭で考えてすることではなくて、
心の奥底から、勝手に沸き起こってくるものなのだろう。

「村上春樹の欠落は(中略)、彼がただ余りに鋭敏であるばかりに
日本社会から純化したかたちで受けとった、
日本社会の欠落の影にすぎないように見える」
加藤典洋 1982年

「自分が、どうして成功したか、分かる。こうすれば良いんだよ」という姿勢には、
時代状況や運や隠れた協力者など、認識できていない部分があり得る。

しかし「自分が、どうして失敗したか、分からない。どうしたら良い?」という姿勢は、
ほとんど人類にとって普遍的だ。
成功と失敗は非対称。

「死者は、このように弔えば良い」という作法は
数多のバリエーションがあるけれど
「死者を弔わないと、居心地が悪い」という心は、ひとつ。

「弔う作法」をそれぞれ成功とするなら「居心地の悪い心」が失敗となる。
それは違和感がある。
しかし「居心地の悪い心」を成功とするなら
「弔う作法」は全て失敗のバリエーションとなってしまう。

それも、面白いけどね…

不器用で健気な、愛すべき、失敗のバリエーションとしての、人間。

https://twitter.com/#!/casiomasasi

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