〜以下引用〜
[マルクスが]『資本論』で経済的価値を「使用価値」と「交換価値」のふたつに明瞭に分けたのは
とても重要なことだと思います。

つまり、水や空気には「使用価値」が無限にあるし、
それは無限にのびていくかもしれないけれど、
ふつうに「価値」と考えられている「交換価値」はゼロである。

天然水も空気も、お金を出して飲んだり吸ったりしているわけではないから、
何かほかのモノと取り換えるわけにはいかない。

(中略)

それに対して「交換価値」というのは、時代を追ってかたちが変わってきますけれども、
何かと換えてもらえる一定の価値のことを意味しています。

先ほどの話でいえば、一個のリンゴはオレンジ二個と交換してもらえる。
そうした交換価値を突きつめていくと、何とでも交換してもらえる物に突き当たる。それが貨幣です。

貨幣というのは、何かを食べたり何か事業をしたり、
つまり自然に対して何らかの営みをする場合、何とでも交換できる。
ここに貨幣の重要性が出てきます。
(吉本隆明『日本語のゆくえ』光文社2008年)

価値増殖のトリック

労働者は生産の対価として報酬を得ます。
一方、経営者は、生産物を市場に流通させることにより利益を得ます。

労働によって生まれた「生産物」を中心に、経営者の視点で見ると、
労働者に対しては「生産物」に対する「交換価値」として報酬を支払い、
市場に対しては「生産物」の「使用価値」として販売価格を設定する。
ここにビジネスにおける価値増殖のトリックがあります。

商品の「使用価値」は、用途と目的の設定や、需要の多さに比例して増大します。
おそらくこれが、価値の増大を前提とする経済の基本ルールなのだと思います。

交換価値の蓄積

一方、人類の社会に貨幣が登場したことにより、価値の蓄積が起こるようになりました。
それ以前には、価値とは家畜や農作物など直接的に「使用価値」を持っているものであり、
長期間の保存や長距離の運搬、遠距離にいる相手との交換には向かないものでした。

価値の蓄積によって貧富の差が生まれ、身分の格差が生まれたと言われています。
この変化はその後、共同体の発展や国家の誕生に大きな意味を持ったようなのですが、今はその話は置いておきたいと思います。

手段の目的化

蓄積された価値は、現代では「資産」として抽象的な概念として所有することが可能です。
人は自ら望む幸福を得るために働き、対価を得て、将来に備えて貯蓄をします。

病気や事故、または自分の死後に残される家族のために資産を残すという発想は健全だと思いますが、
時に、資産を増やすこと自体が目的化していくこともあるようです。

そうなると、本来は使用するために蓄積していた「価値」が、
それ自体独自の価値概念を持ち始めるような気がします。

「資産が○○円ある」ということは、それに対応する商品を購入する能力があることを意味するわけですが、
「資産が○○円ある」ということ自体が、価値になってしまっている状態です。

このように手段が目的化してしまっている状況下では、
本人が望んでいた“幸福な状態”というものも、
貨幣と同じ抽象的概念になってしまうのではないでしょうか?

例えば美容の世界では、「キレイ」「カワイイ」ということが絶対的価値であるかのように
吹聴されている印象を僕は持っているのですが、
これも実は“手段が目的化している“状態なのではないかなぁと感じます。

つまり、「キレイ」だったり「カワイイ」状態であろうとすることは、
それによって誰かに愛されたり、幸せを手に入れられると感じているからだと思うのですが、
究極的なことを言ってしまえば、醜くても、きたなくても、愛されてるならOKなわけですよね・・・?

対象を失って「キレイ」「カワイイ」だけを蓄積することは、なにか本質を見失っているように思われます。
無人島でメイクばっちり決めてても滑稽というか・・・

交換価値のコスト

このような”価値の抽象化”が起きている一方で、
労働者が提供する「交換価値」を作り出すことは
非常にコストがかかるようになってきているのではないか、と思います。

労働者が提供する価値とは、基本的には生産能力なわけですが、
現代日本のようにサービス業の割合が多くなった社会では、
生産とはサービスを意味することが多くなるように思います。

端的に言って、
「労働」というものが、技術や生産能力を提供するというより、
自らの肉体と時間を提供するという意味合いが強くなっているのが
現代社会だと言えるのではないでしょうか?

このことは、労働に対する報酬がしばしば時間の単位で計算されることが裏付けています。

時給、日給、月給、年俸・・・
こういった時間の単位で報酬を受け取っている人は、
生産能力よりもサービスを提供することによって雇用されていると言えるのかもしれません。

サービスという価値

この視点を突きつめていくと、報酬の対象となるのは、
提供できるサービスの内容であり、
技術的な部分を無視すれば、
その人の人柄やキャラクターによって、受け取る報酬が決まってくると言うこともできます。

分かりやすい例で言うなら、
チームに活力をもたらしてくれるムードメーカーやビジョンを持っている人、
顧客の要望に柔軟に対応できるコミュニケーション能力や、
場を盛り上げる“笑い”のセンスがある人など・・・

ここ数年のお笑いブームや、ビジネスの場で言われる“ヒューマンスキル“といったものは、
こうした形のない価値を重要視する風潮から自然に生まれてきたものなのかもしれません。

コミュニケーションの交換価値

労働に限らず、コミュニケーションのある場所にも「交換価値」というものがあるとするなら、
それは共通のバックグラウンドを持っている、つまり“話が通じる” ということかなと思います。

現代社会においては、“通じる“話題をたくさん持っている人ほど高い価値を持つということになり、
最新の流行を知っているだけで「センスが良い」と言われたりする局面もあったりして、
なるほど、情報はなによりも重要なわけですね・・・
ところで、お互いの意志を正確に疎通させるために、
より広いバックグラウンドを持つことは重要とはいえ、一方でここでも、
手段である“情報を持つ“こと自体が目的化する危険はあるような気がします。

例えば、同じミュージシャンやお笑いタレントを知っていることでお互いの理解が深まることはあると思いますが、
ただ“お互いがそれを知っているということ”のみを確認しているだけの会話というものもあります。

個人的には、共通の話題について話をすることで、
「お互いがどんな人間であるかが分かる」ことが重要だと考えているので、
ただネタやキャラクターを「知ってる知ってる!」と確認しあう行為には、不毛なものを感じずにはいられません・・・

行動の動機

そんな危険と隣り合わせだとしても、人が最新の情報を得ようとするのは、
やはり他の人とコミュニケーションを図るためであり、情報を共有することはすでに生きることの一部になっています。

共通の情報ネットワークの中にいる人たちにとって、
そこに属さない人は無価値であり、
同じ空間にいたとしても、存在していないと同様に扱われます。

私たちはそのネットワークから振り落とされまいと情報を共有しようとするのですが、
その行動を支えているのは一種の恐怖や、
強迫観念であったり、被承認欲求であるかもしれません。

しかし、損害や罰をおそれて行動することや、報酬を求めて行動するということは、
ごく自然なこととはいえ、ある意味では
動物的な行動と言えるのではないでしょうか?

仕事に置き換えるなら、褒められるから頑張っているうちは半人前で、
誰にも気付いてもらえなくても完璧な仕事をするようになって、初めて一人前と言えるのではないか・・・
などと思ったりするのですが、どうでしょうか。

もう1つの価値

ところで、たぶん本当は、ものの価値にはさらに深いレベルがあるのではないかなという気がします。

たとえ誰にも共有してもらえない、通じない感覚だとしても、自分自身にとってだけ価値がある、というもの・・・

それは思い出だったり、人との絆だったりして、
交換したり定量化することはもちろん、
使用することで価値を増殖させることもできません。

他人にとっては取るに足らないありふれたものだったり、何に役にも立たない、
言葉では説明することも難しいようなもの。

自分自身の世界観を形成し、自分がどんな世界に属しているかを教えてくれる、ルーツのようなもの。

そういう価値を、とりあえず、ありふれた言葉ですが「存在価値」と呼んでみたいと思います。

3つの価値

異なる存在の間で交流やコミュニケーションを発生させる「交換価値」を中間として、
上のレベルには、用途の設定(見立て)によって魔法のように増殖した「使用価値」があり、
下のレベルには、その存在自体の無意識の闇のような所で存在を裏付けている価値がある・・・

というようなイメージです。

存在=価値

ただ、個人的に、存在するものとは、
それが存在するということ自体がすでに価値なのだと考えています。

存在することで価値や意味があるのではなく、
価値や意味があるから存在しているわけでもなく、
存在することイコール価値。

分かりやすい例で言えば、生物としては、
今ここにこうしているという事実だけで、勝者だと言えるわけで・・・

ただ僕が言いたいのは、生物でないものの存在の価値についても含めたいので、
この例だと漏れてしまう範囲が広いのですが。

存在=未来

それから最近考えていることとして、
存在とはそれ自体で完結するものではない、という感覚があります。

他者あっての自己、自己あっての他者というわけで、存在は関係から切り離すことはできない。

あなたが今、読んでいる文章は、私の残した残像にすぎず、すでに私はその先に進んでいるように、
現在という時間もまた存在せず、連続した時間から切り離すことはできないものです。

自分自身や、関係のある人、仕事や、社会に対して、
その未来を思い描き、希望を抱けるからこそ、人は生きていける。

だとすれば、人生とは、まだ訪れていない時間をも含む概念だと言えるのではないでしょうか。
また、存在とは、まだ訪れていない成長や可能性をも含んでいると言えるのかもしれません。

今、何かができるから価値があるのではなく
(逆に言うと、何かができないから価値がないのではなく)
未来に向けて可能性が開いて、それ自身発展・成長していく萌芽を抱いているから価値がある。

「存在すること」・・・「ある」とは、そんな、
外側から規定されなくても内から自然にエネルギーが
湧き出てくるようなものなのではないか?と考えています。

そういえば、存在=existenceの語源は、「ex-sistere = 外に立ち続ける」という意味なんだそうです。

続きます。