東京国立近代美術館に
わたしいまめまいしたわ 現代美術にみる自己と他者」を見に行きました。

フランシス・ベーコン船越桂草間彌生ほか20名以上ものアーティストの作品を紹介し、
不安定な「私」多様化する「私」見失われる「私」生まれつつある「私」など…
「私」をめぐる認識に揺さぶりをかけてくれる展覧会です。

荒川修作と茂木健一郎の対談を本で読んだとき、
その中で荒川修作が言っていた「自分の外に自分のからだを作る」という意味の言葉が
個人的にとても面白く、今まで考えてきたあれこれが色々繋がっていくような感覚を
もっていたこともあり、刺激をもらうことができました。

その後、恵比寿の東京都写真美術館で「映像をめぐる7夜」というイベントの
「映像の知覚」という、飯村隆彦と豊嶋康子のトークショウに行く予定だったのですが
(恥ずかしながら僕は2人ともどんな仕事をされてるのか知らないのですが、
 テーマが「私をめぐる知覚の虚実を分析的に問題化する」という内容だったので)
当日先着順のため、直前に行ったため入れず・・・残念。

仕方がないので近くのカフェに入り、頭の中に浮かんでいるイメージやフレーズを
忘れないうちに書き留めておくことにました(なにしろ非常に記憶力が弱いので…)。
と、いうわけでつらつら1時間ほどかけて書いたのがこちら。


ちょっとサイコな感じになってしまったので^^; ぼかしてますが・・・
感じのいいカフェだったのでかなり集中して作業できたけれど、あやしいよな…笑


考えながら書いていくと、「あ、こんなことも考えたことある」「これも」
って感じで、どんどん“かつて考えたこと”の断片が出てきまして。
だいたい、6つぐらいのパートに分かれることが分かりました。
ただ、これらの思考の断片が、全体としてどんなメッセージを持っているのか、
恥ずかしながら、自分でよく分からない状態なのです。
自分で考えたからなのか、当たり前のことばかり書いてあるような気がするし。

いくつか書いてみます。


私には、まだ存在していない部分が含まれている。

私を作る私と、私によって作られた私、どちらも私である。

自己と世界は、区別することはできるが、異なるものではない。

私は、私ではないものと混じりあうことによって、私である。


このへんまでがこれまでの僕の認識で、狭い範囲にとどまっているので、
どうにかもっと広い世界へ認識を進めたいと思っているのですが…

存在は関係から切り離すことはできない、動き続けているものである

ってあたりがどうもキーで、たぶんリアリティが問題になるんだけど、
僕自身、あまり周囲に体当たりで自分を表現したりするタイプではなく、
関係している人や事象にリアルに向き合っているとは言えない感じなので、
つまずいてしまいます。

<太った女を描くべきだと思うけれど、太った女が描けない>


たぶん糸口は、昔ある人が言っていた、こんな言葉の近くにあるような気がします。

「自分自身を、問題としてではなく、答えとして、投げ出すんだよ」

まだまだ考えてみます。