最近の気になる言葉、悪い意味で。
それは、「確率」と「可能性」の使い分け。
仕事でも、仕事以外でも、工夫や改善をしたり、何かを意図的に操作してみる時、
「○○を××した方が、成功する確率が高くなる」という言い方が気になります。
「確率」という言葉から僕がイメージするのは、
純粋に偶然が支配する世界。サイコロの目。
工夫や改善をしようとしているはずなのに、偶然に身を任せていいの?
野球がうまくなりたくて一生懸命練習した結果、
試合に勝つ「確率」が上がるのでは、なんともやるせない。
なぜ「可能性」ではなく「確率」という言葉を使ってしまうのだろう。
もしかしたら、「可能性」と言うより「確率」と言った方が、
操作している人の「意図」が薄まる印象を与えることができ、
それによって「責任」も回避するような心理が働いているのかな、と思います。


可能性といえば、世の中には「仮説的思考」と「網羅的思考」というものがあるらしい。
「仮説的思考」は、ある問題に対してまず答えを仮定し、
それを裏付ける証拠があるかないかで仮説を検証、
誤っていれば仮説を補正してさらに検証していくという思考方法。
イメージとしては、屈折しながらも目的地に最短距離で届こうとする稲妻のような。
「直感」と似ているけど、得ている情報から論理的に予測するという意味で、
自身を裏付ける証拠のみを参照していない限りは、決定的に異なります。
「網羅的思考」というのは、ある問題に対して
関連する情報をいったん出し尽くしてから、因果関係を予測していく方法。
イメージとしては、まさに「しらみ潰し」にジワジワと焦点を絞っていく感じ。
解決にたどりつくスピードは、「仮説的思考」の方がはるかに早いことが多く、
日常生活でも仕事でも、重宝されるのは「仮説的思考」の方のように思われます。
今あるものは何、完成形はこれ、では足りないものは何で組み立て方はこう。
といった風に。
「網羅的思考」というのは、今あるものはこれだが、もうすぐあれも揃う。
Aと見えているものはBとしても使えないかとか、余計な枝葉が多い。
博物学的なアプローチなので、些細な変化や、放っておくと消えてしまうような
可能性(絶滅危惧種だ)など、辺縁の細部を拾い上げていくようなパワーは
あるのだけれど、いかんせん効率的ではないようで、人気がありません。


どうも僕は「網羅的思考」のタイプのようで、ついつい考えが寄り道したり、
必要ないけど面白く感じた部分にこだわったりしてしまうのだけれど、
アタマで分かってはいても、なかなか思考パターンというものは変えられません。
(特に好きでないものから食べたりするのも網羅的アプローチかなと)
このごろはWEBシステムの中のプログラムを手探りで考案しなければならない場面も多く、
色々な人の力を借りながらなんとかやってるけれど、
プログラムの明快な処理を見るにつけ、「仮説的思考」を
自在に操れるようになりたいなぁと思う日々です。
とは言え、それが見落としてしまう大事なものもあるような気がするんですけどね。