おしゃぶりに吸い付く赤ん坊のように、欲望は幻想に吸い付いている。
本物の幻想でもダミーの幻想でも、
吸い付けるものがあれば、何でもいいのだ。

気をつけなければならないのは、
幻想によって欲望が作られる場合もあるということ。
何かを求める時に、自分が本当にそれを欲しているのか、
検証することは重要だと思う。

鏡の中に映るのは、鏡を見ている自分だけ。

「欲求」は満たされると消える、自死を含んでいる。
「欲望」には、脳の快感には、限界がない。

なんでも相対化してしまう心理は、
自分自身が比べられているという意識から来るのだろう。
比べられて負けることを恐れる心は、
競争や序列化から逃れ、体系の外に出ようとする。
あらゆるものを交換可能にする「金」を憎んでいる。

金とは、それに相当するものを買えるという
価値の合意そのものであって、
実体のない、保留された可能性だ。

金がなくても「これちょうだい」と言えばもらえるなら、
何も問題はないはず。それでも金が欲しいなら
「自分には可能性があるんだ」という幻想が欲しいだけ。

買い物が快感なのは、自分に行使できる可能性があることを確認できるから。
そこで自分の価値を確認できる気がするから。
「自分の価値を確認するために、使える金がもっと欲しい」という魂は、
地獄にはまり込んでいると思う。

金がある時ちやほやされて、なくなったら孤独になって
「金で人の態度は変わる。人間の醜い部分を見た」などと
言う人間がいるが、金によって増幅されたイメージで、
自分の価値を確認していなかったかと検証してみるべき。

ギャンブルでも、水商売でも、
ちやほやされるのは、金を持っている客だからであって、
金の切れ目が縁の切れ目になるのは必然。

激辛カレーの辛さがエスカレートするように、
過剰な刺激によってしか自分自身を確認できなくなった段階では、
存在そのものが危険にさらされることになる。
となると、買い物への依存、金への依存は、ある種の自傷行為なのだと言える。

買春でも臓器売買でも「人間を金で買う」という行為は、
自らもまた売買される対象になりうる、という可能性に触れてしまう。
それを明確に意識していなくても、心の深層は損なわれていく。
あらゆるものを交換可能にする、金の呪い。

遺伝子操作された食品を食べ、
人工授精などの出産管理技術が発達した現代で、
相対化され、代替可能な存在であると宣告されることの呪いに照射されながら、
人間の魂はどのように損なわれていくのだろう。

「私じゃなくても、いいんでしょ」

http://twitter.com/#!/casiomasasi

  

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