“多くの企業は、コストダウンしか
利益を増やす方法を見出せない状況にある”

雇用者にとって、労働のコストが、
労働者の肉体が従事した時間で計られるなら、
労働者が売っているのは技術でもアイデアでもなく、
自分の時間だと言えるかもしれない。

モダニズムとは「規格化」なのだということを、肝に銘じておきたい。
食糧や家財が規格化することで、多くの人々の生活レベルが向上した。
しかし規格化がもっとも有効に機能するのは、軍隊と工場である。
モダンな世界で、労働者は、工場で単純作業に従事する兵隊になっていく。

いや、テレビは、大変なものを盗んでいきました!あなたの「時間」です!
いや、インターネットは、大変なものを盗んでいきました!あなたの「時間」です!
いや、あなたの労働は、大変なものを盗んでいきました!あなたの「時間」です!

食事を共にすることの重要さは、
本当はお互いの時間を食べているからだ、と言えるかもしれない。

あなたの時間は、おいしい。
あなたの時間が、もっと欲しい。
お前の時間を、もっと売れ。

最高の贈り物は「時間」

訪問時に手土産を持って行くのは、
先に相手に「届ける」ことで、交換/交易の流れを生み出すため、とも言えると思う。

関係とはイコール交換だから、
人に何かをしてもらいたいと思う時には、自分が相手に何をできるか、考える。

誰かにあげるためのものではなく、
自分で取っておきたいものこそ、誰かにあげよう。

興味のないものに関わった時間のぶんだけ、人生は損なわれる。
ただ失われるというだけでなく、
出会えたかもしれない素晴らしい体験ができなかった
という意味においてより強く、
生きている時間に心をぶつけないことは、人生を損なわせる。

“買う理由が金額ならやめておけ。買わない理由が金額なら買っておけ。”

挨拶は言葉の「贈り物」だから、
自分のためじゃなくて相手に明るい言霊を届けることがポイントなんだな。
明るく大きな声で、挨拶したい。

経済(economy)という語は、
ギリシャ語のオイコノミア(Oikonomia)、
オイコノミクス(Oeconomicus)からきている。
これは、オイコス(家)とノモス(法またはルール)を組み合わせた語で、
家計を管理する方法、ひいては「共同体の在り方」を示すらしい。

経済活動の本質が「交流」であって、
金銭の授受は二次的なものでしかないとしたら。
物々交換はもちろん、挨拶を交わすことも、
言葉や写真で未来に記録を残すことだって、
広い意味での「経済」と言えるのかもしれない。
経済についての認識をちょっと改める必要があるような気がする。

借金の仕方にも、器の大きさが表れる。

手持ちのお金、手持ちの知識、手持ちの人手(自分自身)だけで
できることは、たかが知れている。
いかに上手く「借りる」ことができるか、は
プロジェクトの成功に大きく関わってくると思う。
借り上手になりたい。

「存在の周辺」をグルグル回ってると、輪郭が濃くなってくる。
つまり、自分自身ではなく、自分のまわりに何があるかを確認することでこそ、
自分という存在が見えてくる。

存在というものは「存在のまわり」があるから、存在する。

人間だれしも「物語」が必要なんだ、と思うが、
本当は、誰しもすでに自分の歴史という物語を持っているんだよね。
それを、金で買える代替可能なものに自らすり替えててしまうのは、
実にもったいないことだ。
血、家族、友人、故郷、時代、経験、ひとつとして同じものは無い。

「グローバルに通用する人」などと言われるけど
「高く売れる」ことだけが至上の価値ならば、
医者も教師も売春婦も、実は、同じ基準に立っているのだと言える。
高く売れない、または売り物にならないからといって
「物語」を失うと、自分自身を見失うことになる。気をつけよう。

“組織とは、構成員がエネルギーをチャージして、また外へ出て行くような場所であるべき。
会社でも家族でも。甘え・依存ではない「帰る場所」というイメージ。”

近代的自我の目覚めとともに、人の心も規格化されたのだろうか?
モダン・タイムス(チャップリン)モダン・ギルト(ベック)…
まだ近代の呪いは解けていない。この次へ進むことができれば、新しい時代が始まる。

ウィッグ/帽子/仮面/メガネの共通点は、架空のペルソナを演じられること。

「自己の同一性」を強いられる精神が、自由を求めて分裂することが、
ファッションの原動力となっている。
架空のペルソナを弄び、精神を解放することができなければ、分裂症になるしかない。

でも本当は、人間はいつも同一なんかじゃないんだぜ。
アイデンティティはモダンタイムスの幻想なんだぜ。

給料は「我慢料」では、ない。

働くことは、つらいか。 http://katax.tumblr.com/post/19605731928

「生活できるだけのお金」を得ることが労働ではない。
給与が少なくて「生活できない」としても本当の問題はもっと手前にある。
生み出す付加価値と、生み出した者の生活レベルは、無関係。
生活費からの逆算ではなく、報酬に値する付加価値を提供しているかを検証したい。

プロとアマチュアの違い。
「プロとは、常にセンサーがONである人」というのはどうだろう。
ずっと働いているという意味ではなく、
食事していても、子供と遊んでいても、センサーがONのままでいる人。

そのセンサーが収入に繋がるかとは別で。
また、パートタイムで生活を区切ることを批判する意味ではなく。
僕のイメージするプロとは
「そのことをするための身体/生活に、変形/適応してしまった人」

僕は変形した人間の身体を描いているわけだけど、
攻撃や効率化のための変形(足にロケットが付くとか)ではなく
「ダメージを負っている/攻撃されている」身体を描いている。
それによって何かを解放できるように祈って描いている。

他者を祝ったり呪ったりすることが、
表現の強度としてはもっとも強いのかもしれない。
届ける相手が遠いほど、強度は増して行く。
自分自身の憧れとか感傷では、人には届かない。

言葉を語ること、踊ること、歌うこと、すべて祈りなのよね。

僕は「祈る人」になるのだろうか…?

https://twitter.com/#!/casiomasasi

やさしくするよ

http://casiomasasi.com/activities/?cat=101

 

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