ほんにゃらほんにゃら

あぁ、普通っていう概念に興味がないんだ、俺。わかった。

立場が弱いときに下手に出るのは、普通の人。
立場が強いときに強気に出るのは、俗物。
立場が強いときに下手に出てこそ、大物。

為そうと思うな、為すと知れ。

私たちはすでに、解決のプロセスの中にいる。

自分は普通にできないし、普通のフィールドで戦ったら負けるから。
小さな頃から「普通にしろよ」とか言われながら生きてきたけど、
なぜ普通にできないのか、まだ分からない。
たぶん人として大事な何かが決定的に損なわれているんだろう。

ただ、一方で
「空気読んでるだけで物事が進むと思うなら、一生そうしてろよ」
という気分も、ある。
僕は気が短いのでね。

英語でしゃべる職場にいて、改めて思うのは、
自分が言いたいことが明確でないと、何も言えないということ。
日本語の会話だと、僕の場合は、相手に合わせてるだけで
問題なく会話が進むこともある。

イメージだけど、何も言わなくても同じサービスが受けられる、
日本の旅館の朝食とか、を連想する。
つまり、普通とは圧倒的多数の暗黙の了解にすぎず、
それを成り立たせるために、日本は同一民族などという幻想もまた
生まれるということだ。

飛躍するけど、それを普通たらしめるために、
構成員を均質化しようとするのが日本的社会だ、と言えないだろうか?
排他的なムラ社会。

僕自身、特に変わった出自も経歴もないし、マイノリティーではないと思うけど、
単なる憧れにすぎないとしても、やっぱり、自由と可能性を愛している。
スタイルや、心のあり方の多様さを好むし、それを潰そうとするものを嫌う。

どんなあり方でも、存在すること自体が、価値だと考えている。
存在するから価値があるのでも、価値があるから存在するのでもなく、
存在そのものが、価値。

役に立つとか、意味があるとかいったことは、たいしたことじゃない。
それは一種の処世術のようなものでしょ。

ただ、それは、僕が自分自身を、
役に立たない、意味のない存在だと考えているからなのかもしれない。
ひとつの自己弁護の形にすぎないのかもしれない。

僕は甘えが嫌いだ。
甘いている人が嫌いだ。
甘えられるのが嫌いだ。
何も言わなくても「普通」が手に入ると思う人が嫌いだ。
他人を「普通」に当てはめて評価する人が嫌いだ。
それを指摘されて怒る、認識の浅さが嫌いだ。

自分を「普通」に当てはめて苦しんでいる人を助けたいと思う。
世界をもっとハチャメチャで、楽しくはしゃぎ回っているものとして描きたい。
へんてこで、無意味で、存在そのものが祝福されているように。

甘えに関する僕の違和感の根は深く、
僕は、自分が人に甘えることに怯えている節がある。
だから、のびのびと甘えられる人が嫌いなのかもしれない。
そして、甘えられないということは、突き詰めると、
人を信じられないということではないだろうか?

だから、独りが好きなのかな?
だから、感情が乏しいのかな?
こんなに楽天家なのに、いつか鬱になって自殺するのかな?

うすうす気づいていることがある。
それは、僕は、自分の望む方向に進んではいるが、
幸せになりたいとは、思っていないらしい!

これは実に困った問題だよ。

はぁー、おっぱいおっぱい